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初代女将・千代子の日記

27.わが夫濱口八郎

「よさこい祭り」に貢献

夫婦そろっての金婚式の記念写真(昭和61年・「濱長」)

「おかみの日記」もいよいよ終わりです。これまでは、お客さまとの思い出を中心に書かせていただきましたが、最後はお許しを願って私の亡き夫、濱口八郎の自慢話を少々させていただきたいと思います。
それは私が料亭「濱長」のおかみとしてどうにかやってこられたのも、結局は主人の後ろだてがあったおかげだと思うからです。そのことを主人が亡くなってから、つくづく感じるようになりました。
正直申しまして、主人は自分の店の仕事にはそう熱心ではございませんでしたが、人さまに依頼されたり、大勢の人に喜んでもらえることになると大層力をいれました。特に高知県の観光振興には熱心で、高知市の夏の名物行事「よさこい祭り」には、高知商工会議所観光部会の役員だったこともあり、随分と力を入れておりました。生みの親の一人、と言ってもよいと思います。
「よさこい祭り」が初めて行われたのは昭和二十九年。鳴子踊りのあのにぎやかなリズム、鳴子のアイデアなどは、申すまでもなく作曲家の武政英策先生によるものですが、踊りの振り付けについては、主人が日本舞踊各流派のお師匠さんたちとの間に入って苦労していました。
南はりまや町にあった店の大広間に集まってもらい、いろいろ工夫をしておりましたが、お師匠さんたちの振り付けはどうしても、見て優雅な舞台踊りになってしまい、なかなか前へ進みません。これに対し「街頭での踊りなので、回ったり、後ろへ下がったりしていたのでは具合が悪い。とにかく前へ、前へ進むように」というのが主人の意見でした。
それは徳島の阿波踊りなど、先進地の視察も十分したうえでのことでしたが、専門家の振り付けを無視するわけにもいかず、あでやかなお師匠さんたちの中に入って、ああでもない、こうでもない、と注文を付けておりました。
しかし、祭りの日はだんだんと近づいてきます。そこで、一回目は仕方がないと手を打ったのが「三歩進んで、くるりと回り、一歩下がってチョン」という型だったのです。主人はその時のことを「よさこい祭り振興会」が昭和四十八年に出した『20年史』の中で書いております。

励ましてくれた元副総理

それほど「よさこい祭り」に打ち込んでいた主人も一時期、世話役を続けるのがいやになり「もう止めた」と言っていたことがあります。それは、歌詞の中の「じんま、ばんば」とか「よっちょれ、よっちょれ」という言葉にクレームが付いたり、祭り全体を批判する声があったからでした。
めったに弱音をはかない主人が「高知の観光宣伝と思うて一生懸命やりように、悪う言われてはたまらん」とこぼすのを聞いて、私は慰めようがありませんでした。
そんな時、主人を励ましてくださったのが、宿毛市出身で元副総理の林譲治先生でした。小唄もお上手な風流人だった先生は、うちの店へお見えになった時その話を聞いて「濱口君、地方の踊りはあまりスマートでなく、どろくさいくらいがいいんだよ。いろいろ言われても気にすることはない、頑張りなさい」とおっしゃいました。現金なもので、天下の副将軍ならぬ元副総理に励まされた主人は、またやる気を取り戻し「よさこい祭り」により一段と打ち込むようになりました。
その後、鳴子踊りの型はご承知のように年とともに変化してまいりました。主人はむしろそれを願っていたようで、生前よく「街頭踊りは型にこだわることはない。リズムに合わせて、だれでもできる単純な踊りがいい」と喜んでおりました。
平成元年七月二十八日午前一時から約四時間、RKC高知放送が生放送した「朝まで生討論!どうする?よさこい祭り」という番組には、主人もパネリストの一人として出演させていただきました。
実はその時、主人はもう体を悪くしていました。私は「夜中のこともあるので、ご辞退したら…」と申したのですが「高知放送がわざわざオレに声を掛けてくれたのに断れるか」と言って出掛け、放送が終わると上機嫌で帰ってきました。
その三ヵ月後の十月下旬、主人は亡くなりました。テレビへの出演は、未知の世界への旅立ちに当たって、いい土産話になったのかもしれません。

「浦戸大橋」でも一役

あまり知られていませんが、主人は昭和四十七年にできた浦戸大橋の建設にも一役買っています。この大橋は着工前、種崎側の取り付けをめぐって日本道路公団と件の意見が対立、計画が進まなくなっていた時期がありました。
このため、主人が高知県出身で公団の技術部長をしていた方と一緒にゴルフをしていた時、その方から「溝渕知事を説得してほしい」とのお話があったようです。
最初の設計では、らせん状にすることになっていたのを、車時代に備え直線式にしたい、というのが公団の考えでした。それには千松公園の松を少し切らねばなりませんでしたが、将来のことを考えると公団案がよいと思った主人は溝渕さんを説得するのに随分骨を折りました。
その後、完工間近になって公団から「大橋の通行料金徴収の仕事を民間に委託したい。もうけにはなるまいが引き受けてほしい」との話があり、主人と高知出身で仲のよかった大林組の久保内志瑳男さん、国則一夫さんが発起人となって南国道路施設株式会社という会社を設立。平成元年に亡くなるまで主人が社長をしていました。現在は私が務めさせていただいております。
平成元年十月、主人が亡くなった時、葬儀委員長は高知商工会議所の吉村眞一会頭に、というのが遺言でした。心よく引き受けてくださった吉村会頭は弔辞の中で、主人が料飲業界や「よさこい祭り」などに大いに貢献したことを挙げ「観光を通じて高知の活性化をはかるという、あなたの心を心として地域発展のために取り組む所存です」とおっしゃってくださいました。じっと聞いていた私は本当にありがたく、心の中で何度も何度もお礼を申し上げました。

弁当づくりに頑張る

主人と私の間には男二人、女二人の子供があり、孫は十一人、ひ孫も五人おります。この子供たちが中学や高校に通っていたころは大変でした。料亭の後片付けが終わり、私が寝るのは午前二時ごろ。それでも五時にはきっちり目を覚まし、四人子供たちの弁当をつくり、女の子スカートにはアイロンを当てていました。
料亭だから弁当くらいわけないだろう、と思われるかもしれません。しかし、店の冷蔵庫には、おかみといえども勝手に手をつけるわけにはまいりません。眠い目をこすりながら、お惣菜つくりに毎日頑張りました。
お手伝いさんにしてもらったら、と言う人もいましたが、私は子供たちのお弁当は自分で作りたかったのです。それは、私が子供のころ両親を亡くし叔父の家に引き取られ育ったからかもしれません。私が味わえなかった親のぬくもりを子供たちには感じてほしかった。そんな気持ちが知らず知らずのうちに働いていたとも言えましょう。