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初代女将・千代子の日記

3.「濱長」の誕生

進駐軍接待の内命

昭和二十年八月十五日に終戦になると、主人はすぐ帰ってきました。
外国の軍隊が進駐してくると、女性はひどい目に遭う。それを防ぐには、料飲店を開き、飲んだり食べたりするところをつくってやるのが一番。ついては、その準備をしてほしい。主人がすぐ帰ってきたのは、どうやら、そういう内命を受けていたからのようでした。
復員してくるとすぐ、「椿」さん、「松原」さん、「得月花壇」さんと共同で、高知公園の中にあった「花壇」さんの店を使って、進駐軍用の料飲店を開く準備に取りかかりました。水商売の経験をもつ女性の応募も随分あり、畳の部屋で「イッチ、ニー、サン」とダンスのレッスンもやりました。
ところが、進駐してきた米軍はこの「花壇」に目をつけ、将校用の宿舎に接収してしまいました。このため、やむを得ず店は場所を変え、越前町で開業するありさまでした。
この店は寄り合いの所帯のせいもあって、結局はうまくいかず、間もなく解散。私たち夫婦は、現在の丸の内高校南側の武藤さんのお屋敷を借りて店を始めることになりました。昭和二十一年半ばのことです。
そのとき考えた店の名前は私たち夫婦の名前からとった「濱八」「濱千代」、それと「濱長」。濱長には、末永くひいきにしていただけるように、との願いが込められていました。
この三つを紙に書き神棚に供え、主人のほか従業員みんなが見ている前で私がかしわ手を打ち、目をつぶって一つを選びました。それが「濱長」だったのです。「まっこと、この名前が一番ええ」と、みんな手をたたいて新しい店の誕生を喜んでくれました。

新前おかみのストレス

高知市丸ノ内で開業した店の前で記念写真。前列中央で赤ちゃんを抱いているのが筆者(昭和21年)

昭和二十一年、高知市丸ノ内で武藤さんの屋敷を借りて始めた「濱長」は、私の「おかみさん」稼業の初舞台でした。何も知らない私は、おゆきさんという年配の仲居頭に一つひとつ教えてもらう毎日。おしょうゆを「むらさき」ということも始めて知りました。後に長唄のお師匠さんになったおゆきさんは非常にしっかりした人で、私の「おかみ」としての下地をつくってくれた恩人です。
当時のお客さんは料理屋で純粋に遊ぶ人が多く、仲居さんや芸者さんもお客さんを喜ばすためいろんなことをしました。が、おゆきさんは私に「おかみさんは仲居がするようなことをする必要はありません。お座敷には、大切なお客さんがお見えになった時。ちょっとだけごあいさつに出てもらえれば十分です」と言ってくれました。
その反面、小さなことにまで気をつけていて「ごあいさつするときは必ず三つ指ですよ」と、おかみとしてのイロハを教えてくれました。
帳場は板場の隣にあったわずか二畳の部屋。そのうちの一畳で番頭さんと私が帳面をつけ、もう一畳には赤ん坊だった二男を寝かせていました。
店はおかげさまで繁盛しました。県庁に近いせいもあったでしょうが、当時の吉富滋知事や、吉富さんが亡くなった後の西村直巳知事もよく利用してくださいました。吉富さんは酔うと帳場にやってきて二男を抱き上げ、ほおぺったをなめ回すのがくせでした。仲居さんや芸者さんも手の空いている時には二男を抱き、なかには自分のおっぱいをふくませたりする人もいました。
このように、お客さんにも恵まれ、店の人もみなよくやってくれましたが、その人たちに見えないところで、新前おかみの私は、随分苦しい思いも致しました。
当時、私の店で働いていた女性はいろんな経歴の人の集まりでした。以前から芸者や仲居さんをしていた人、キャバレーにいた人、お手伝いさんをしていた人。つまり苦労を重ね、人生経験豊富な人ばかりだったのに比べ、私はと言えば年齢も一番若い素人おかみ。
いやがらせをされることはありませんでしたが年は若くてもその人たちをたばねていかなければならぬ立場の私には、どうしても負けてなるものかという背伸びしたいところがありました。何も知らないのに、何でも心得ているように見せねばならない張り詰めた気持ちが、片時も抜けませんでした。
しかし、人間はそうそう緊張ばかりではいられません。私もいまで言うストレスがたまり、どうにも耐えられなくなる時がありました。夜遅く二男を背負ってそっと店を出た私は薫的さまの方へとぼとぼ歩きました。江ノ口川に架かる橋の真ん中で欄干に取りすがり、ワッと大声で泣いたことが何度あったことでしょう。それが私のストレス発散法だったのです。