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初代女将・千代子の日記

2.帝国軍人の妻

8ヶ月で上等兵に

昭和十八年八月、召集された夫・濱口八郎が朝倉の連隊に入ってすぐ、面会に行った時のことです。おぶっていった娘が、小さな手であめ玉を主人の口に入れました。口をもぐもぐさせながら、主人も本当にうれしそうでした。
すると、どうでしょう。それを見ていた一人の兵隊さんが、つかつかとやってきて、いきなり主人のほっぺたを殴ったのです。親子のほほえましい情景が、めめしいとでも映ったのでしょうか。
娘は驚いて泣き出すし、私はあまりのことに口もきけませんでした。軍隊はなんと恐ろしいところだろう。頭の中がカーッとなるような腹立たしさがこみ上げてきました。
衛生兵だった主人は星二つの一等兵。殴った相手は星三つの上等兵。よっし、主人も上等兵になったら、あんな乱暴をされずに済む。一日も早く上等兵になってほしい。こう思った私は、翌日から薫的さまにお百度参りを始めました。
「早く主人が上等兵になりますように」真夜中の十二時に家を出て、暗い夜道を女一人歩く恐ろしさもなんのその。神社では、ただそれだけを祈り、手を合わせました。すると、わずか八ヶ月で主人は上等兵に昇進したのです。軍隊の昇進がどんな基準で行われていたのか、女性の私には知る由もありません。でも、神様が願いをかなえてくださった。私は素直にそう信じ、感謝しました

夫の身を案じる日々

入隊前の夫・濱口八郎(右)と一緒に料理店組合の仕事をしていた松原さん(昭和18年)

その後の主人は、たいしていじめられることもなく、やがては兵長に昇進、私は一人前の「帝国軍人の妻」になったような気持ちでいました。しかし、戦争は激しくなる一方です。主人の身に何かあったら、という不安は絶えずつきまとっていました。
そんなある日のこと、店を手伝ってくれていた主人の父が、「千代子さん、ちょっと話がある」というのです。
当時、主人の弟も召集され既に戦地へ行っていました。このため、義父はその弟のことは半ばあきらめていたらしく、せめて兄の八郎だけは生きて帰ってきてほしいと、そればかりを願っていたのでした。
「金で命を買えんろうけんど、何とか八郎が戦地へ行かずに済む手だてはないもんじゃろうか。あんたの出来る方法で八郎を守ってほしい」この義父の願いを聞いた時は、正直言ってびっくりしました。曲がりなりにも「帝国軍人の妻」を誇りに思っていた私です。そんな「非国民」のようなことは出来ない、と思いました。
しかし、主人の身を案じるのは私とて同じこと。日がたつにつれ、真剣に考えるようになりました。そこで思いあまって相談に行ったのが、キャバレー「松原」のご主人のところでした。松原さんは主人が召集される前、一緒に料理店組合の役員をしており、気心が十分に分かっていた仲でした。
話を聞いた松原さんは「お父さんや、あんたの気持ちはよう分かる。私自身も濱口さんが無事に帰ってきて、もう一度一緒に仕事をしたいと思うちゅう」と言い、いろいろと動いてくれたようです。
それが、どれほど効果があったのか私には分かりません。一方、私は軍が戦闘機などを造るために呼びかけていた「国防献金」には大いに協力しました。隣組などを通じての割り当てはもちろん、店に献金箱を置き、お客さんが入れてくれたお金に自分のお金を足して、何回も大手前の連隊区司令部に持っていきました。時の東条英機首相から表彰状をもらったほどです。「国防献金」に私がそれほど一生懸命になったのは、どこかに「軍人の妻」としての誇りと、また一種の後ろめたさがあったからかもしれません。

日本刀への思い複雑

招集され町内の人たちの激励を受ける夫・濱口八郎(中央)

私たちの願いが通じたのか戦地へ行かずに済んだ主人は、しばらくして香美郡夜須町の手結に移動し、そこに駐屯していました。アメリカ軍の上陸を迎え撃つ準備をしていたらしいのです。
主人は衛生兵でしたが、私の思いなど関係なく、手結に着くとすぐ「アメリカ軍に切り込む覚悟なので、よく切れる日本刀を手に入れて届けてほしい」と勇ましいことを行ってよこしました。
そこで、私は大金をはたいて、ある剣道の先生から古刀を買い、それを軍刀に仕立てて手結へ届けました。あまり立派な刀だったので、上官や仲間の兵隊さんに「濱口は兵長のくせに、ええ刀を持っちゅうねや」とうらやましがられたそうです。
昭和二十年七月、主人から「三日間だけ休暇が出た」という思いがけぬ連絡がありました。当時、私たち一家は私の故郷の窪川町松葉川に疎開しておりましたが、この知らせに矢もたてもたまらず、私は手結まで迎えに行きました。
そして朝早く、二人で手結を出発、後免まで汽車に乗り、そこからは電車が動いてなかったので西へ向かって歩き始めました。やがて高知市へ。空襲を受けた直後でしたので、いやな臭いと、むせるように暑かったのを覚えています。
朝倉の兵営の前まで来たとき、B29の編隊がごうごうとものすごい爆音をたてて飛んで来ました。主人が慌てて、道端にうつ伏せになるように申しましたが、くたくたになっていた私は、もうどうにでもなれと思い、電車の線路にあお向けに寝転がりました。


高知市大空襲で焼野が原になった高知市。高知駅(前方)から播磨屋橋へ通じる大通りを撮影したもので、右側の建物は高知信用金庫の倉庫(昭和20年7月=高知新聞社提供)

兵営に爆弾を落とすのかと思っていたB29は、勝ち誇ったように低空を飛んだだけで姿を消し、命拾いをした私たちはまた西へ向かって歩き始めました。そして、やっと伊野まで来て、やれうれしや一台のハイヤーを見つけました。それに乗って窪川へ帰り着いた時はもう夜。もう寝ていた子供たちに主人がほおずりをするのを見て、私は足が棒のようになっていた疲れを忘れました。
しかし、主人は家で一晩寝ただけ。髪とツメを切って紙に包んで残し、翌日にはまた手結へ向かいました。途中まで送って行った私は、別れる時「この人とはこれが最後かもしれない」とふと思い、心の中で慌ててそれを打ち消したことでした。そのとき、私のおなかには五ヶ月になる二男がいました。
幸い主人が刀を使って武勇伝を残すことはなく、八月十五日に戦争は終わりました。が、そうなると困ったのは問題の刀の処分です。立派な刀を持っているのをアメリカ軍に見つかったら、どんな目に遭わされるかもしれない、と主人も心配になったらしいのです。そこで一緒に疎開していた主人の妹が手結まで出向き、節をくり抜いたモウソウ竹に刀を入れて帰ってきました。
私は裏の畑にでも埋めておけばよいと思いましたが、義父が「そんなことではいかん。もし見つかったら「大変なことになる」と言って、炭焼き小屋へ持っていきました。
そのとき、炭焼き小屋でどうしたのか知りませんでしたが、やがて復員して帰ってきた主人が「あの刀はどうした」と聞くと、なんと義父は刀を炭焼きの火で焼いたうえ、三つに切断して隠してあったのです。
「それがたまるか。惜しいことをした。あの刀は値打ちもんじゃったに」と、主人も私も残念がりましたが、もう後の祭り。刀騒動は一件落着となりました。