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初代女将・千代子の日記

16.かまぼこ流家元

「寅熊会」のメンバー

にぎやかに「はし拳」を打つ永野寅太郎さん=右側(旧濱長)

昭和三十一、二年ごろから、うちの店に時々集まっていた「寅熊会」というグループがございました。メンバーは永野蒲鉾店の永野寅太郎さん、県議会議員で西岡寅太郎商店の西岡寅太郎さん。後の県議会議員で大熊水産の泉清利さん、当時の高松国税局長、武樋寅三郎さん。
泉さんだけは、お名前に「寅」の字が付いていませんでしたので、会社名から「熊」の字をとって「寅熊会」。これに、お酒を全くあがらなかった高知新聞社の小松鶴喜さんと私の主人の濱口八郎が仲間入りしました。
みなさん気のおけない方ばかりでしたが、なかでも永野さんと主人は大の仲よし。三十三年に高知スーパーマーケットができた時も、相談を受けた主人が永野さんを社長に推薦したほどでした。
高知スーパーの社長になってから、永野さんは取引先の接待などもあって、以前にも増してうちの店を利用してくださるようになりましたが、お酒が入ると必ずといっていいほど舞台に上がり、唄(うた)でこい、踊りでこいの芸達者でした。
そこへいくと、主人は全くの下戸でしたので、塩見俊二先生が高知へお帰りになった時などは、すぐに永野さんを呼び、お相手をしてもらっていました。横綱の千代の山関が巡業できた時もそうでした。
主人に言われて私が電話しますと、永野さんはいつも口ぐせのようになっていた「ええとも、ええとも」の二つ返事。舞台で永野さんの唄や踊りが始まりますと、主人が「よう日本一」の合いの手を入れる。永野さんもますます調子がでてみな拍手かっさい。それそれはにぎやかでした。

大阪の芸者衆びっくり

「寅熊会」のメンバー

いつだったか、塩見先生と永野さん、それにうちの主人が一緒に大阪ミナミの料亭に行った時の話です。座敷にきた芸者さんたちがお得意の踊りを一通り披露したあと、先生が「永野、負けずにやれ」と声をかけ、まじめな顔で「これからかまぼこ流の家元が踊りをお見せします」とおっしゃったそうです。
料亭で用意した浴衣に着替えた永野さんの見事な踊りに芸者衆もすっかり感心。そのうちの一人が「先生、ただいまかまぼこ流とおっしゃいましたが、これはどういう流儀でしょうか」と尋ねたらしいのです。
すると、うちの主人がすかさず「実は、この男は土佐のかまぼこ屋の主人じゃ」と答えたものですから、芸者さんたちも大笑い。家に帰った主人にその話を聞いた私も、しばらく笑いが止まりませんでした。
永野さんは主人より年上でしたが見かけは若く、主人を呼ぶ時はいつも「お父さん」と言っていました。料亭の主人を「お父さん」、おかみを「お母さん」と呼ぶのは、この世界の習慣ですが、永野さん「お父さん」には本当に親しみがこもっていて、私も家族同様の通じ合う気持ちを感じていました。
その永野さんも主人も亡くなりました。世の中も変わって、最近はあんなに楽しそうでにぎやかなお座敷が少なくなりました。二人はきっと、私たちに見えないところでコンビを組み、仲よくやっていることでしょう。いまでも、主人の「日本一」の掛け声が聞こえてくるようです。


17.二人の本部長

アロハでぶらり

千代の山関と舞台に立つ高木県警本部長(旧「濱長」本店)

有名な岸本社長殺害事件があった昭和三十一年ごろ、高知県警本部長だった高木貞年さんは実に天衣無縫、警察の方としては、それはそれは型破りでした。
当時、高知新聞社の警察回り記者で後の取締役になった梅原薫明さんと大の仲よし。よくご一緒に来てくださいましたが、ある日、まだ明るいうちにアロハシャツで、それも豆千代さんという舞妓(まいこ)まで連れてお見えになったのには驚きました。
高木さんは、日ごろから堅苦しいのが嫌いで、軽装でお出かけになることが多かったようです。ご本人にしてみれば、料亭へ行くのにアロハは当たり前、くらいのお気持ちだったのでしょう。梅原さんはよく高木さんのことを「アロハの本部長」とおっしゃっていました。
そんな調子ですから、お座敷でも歌や踊りでにぎやかなこと。先に書きました横綱千代の山関にもお引き合せしたところ、すっかり意気投合し、ご覧の写真のように仲よくマイクを握ったこともございました。
ただ一つ、お小用をしたくなると、がらがらっと廊下のガラス戸を開け、庭に向かって勢いよく用を足すことがちょいちょいあったのには閉口しました。
トイレにご案内しようとした仲居さんが見ていても平気の平左。これがほかの方なら傍若無人と非難されたでしょうが、高木本部長さんの場合は例外。同席のお客さんもいやな顔をなさったり、どがめたりすることが全くございませんでした。
それは誰にも親しまれたお人柄だったからだと思います。

「お茶を」と言われて

千代の山関と仲よく飲んだり歌ったりの高木県警本部長(旧「濱長」本店)

その高木さんの前、つまり国家地方警察から県警察に替わったときの初代本部長が、後に人事院総裁になった内海倫さん。高木さんとは好対照の物静かな方でした。
ある日、お酒がほぼ終わったところで「お茶を所望しようかな」とおっしゃいました。そこで、私がお茶を入れてお出ししたところ、手に取ろうともされず「これは違う」と言われるのです。
私は何がどう違うのか訳が分からず困ってしまいました。すると、小さな声で「僕が欲しかったのはお薄のことだよ」と教えてくださいました。
私は翌日からお茶の先生のところへ一週間を通いつめ、即席ながらお薄のたて方を習いました。いま考えると、お客さんに精いっぱいのおもてなしをしなければならない料理屋のおかみとしての意地だったかもしれません。
そして幾日かたち、内海さんが次にお見えになったとき、お薄をたててお出しすることができました。「ああ、これだよ」と、褒めていただいて嬉しかったのをいまも忘れることはできません。
内海さんとは三年前、三十数年ぶりにお目にかかることができました。いまの鏡川べりの店へおこしになったのです。
内海さんは最初、私の顔をお忘れになっていたようでした。しかし、ごあいさつする声を聞いて「あ、思い出した。あの時のおかみさんですね」とおっしゃってくださいました。それは「お茶を」と言われたときを同じ静かなお声でございました。


18.二隻の屋形船

浦戸湾内を風流に

屋形船に乗って、浦戸湾で捕れる魚をご覧になる高松宮さま(中央の柱の右側)

現在、うちの店がある高知市唐人町の鏡川べりに、民家を改造して旅館「濱長別館」を始めたのは昭和二十四年です。その年か翌年だったかと思いますが、鏡川と浦戸湾内を風流に楽しめる屋形船を造りました。
「これからの高知は観光を盛んにすることが大切。それには何か名物がいる。座敷代わりの屋形船はしゃれちゅうじゃいか」と言う主人の発想でした。
長さ一一・九メートル、幅二・四メートル、四・六一トン。建造費は二十九万八百円。畳敷きで、お客さんは二十人くらい乗れました。両側に同じ人数ずつ座り、中に料理を置き、仲居さんがいてお世話をするのです。
エンジンが付いていて、運転はそのころ帳場にいた番頭さんがしましたが、時々は主人もやっていました。浦戸湾へ出ると巣山へつけて、船の中で飲んだり食べたり。いくら騒いでも海の上なので周囲に迷惑をかけることはありません。いい時代でした。
県外のお客さんの接待に利用してくださることが多く、高松宮さまがお乗りになったこともありました。正直申しまして、船に料理を持ち込むのが大変。高価な食器を割ることもちょいちょいあって、そうもうけにはなりませんでしたが、高知の宣伝にはかなり役立ったと思います。

台風で流され沈没

「濱長」が所有した屋形船の内部

正確な年月は忘れましたが、この屋形船は大きな台風で鏡川が増水した時に流され、下流の橋げたに当たって沈没しました。
船は別館の庭にあった高知一と言われた松の木につないでありましたが、ものすごい濁流で流されそうになったため、若い衆がロープを引っ張り、主人が船に乗ってエンジンをかけ、陸に乗り上げようとしたそうです。
ところが、そのロープが切れたからたまりません。主人を乗せたまま船は流され、下流の橋に当たって砕けました。主人は濁流の中へ放り出され一瞬意識を失ったそうですが、気がつくと板切れがあったので、それにつかまり流されているところを助けられました。お医者さまが来てからは、眠らせてはいかんと、みんなで体や腕をぴしゃぴしゃとたたきながら手当をしていただきました。たまたま皮のジャンパーを着ていたのが心臓の冷えるのを防いだらしく、九死に一生を得たのです。
この事故があって、私はもう金輪際、船はいやだと思いました。ところが、塩見俊二先生や高知新聞の社長だった福田義郎さんらが「やっぱり屋形船がないといかん。人間は一回死んだら二回死ぬことはないから大丈夫。もう一回造りや」とおっしゃるのです。そこで昭和三十年代になって、最初の船とそっくりの第二号を造りました。
ただし、主人に注文をつけ、風や雨があれば絶対に出さない、専門の船頭さんを雇う、この二つを守ってもらうことにしました。
そんな具合ですから、二隻目の船は動いているより陸に上がっていることが多く、やがて、ただ同然で人手に渡しました。
かつて屋形船を出していた鏡川べりに店が移ったいま、当時を懐かしがるお客さんは随分いらっしゃいます。それを知って、店を手伝っている孫が最近、新しい船を造る計画をたてています。さて、どうなるでしょうか。私は期待と不安を交錯させながら見守っております。


19.市丸ねえさん

お店を支えた指南役

市丸さん(左端)をひいきにしていた公平高知営林局長。真ん中が筆者(旧「濱長」本店)

「事業は人なり」と申しますが、うちの店のことを話すのに「市丸ねえさん」を抜かすわけにはまいりません。
店が南はりまや町に移転して間もない昭和二十四年ごろ、市丸さんは得月楼から移ってきました。とびきりの美人で芸達者。たちまち人気者になりました。
しかし、私が市丸さんに感謝しているのは、そういうことだけでなく、おかみの経験がまだ浅かった私の指南役として、お客さんとの接し方、仲居さんのしつけなど、あらゆる面で力になってくれたことでした。
夜は遅いのに、朝九時ごろには店へ来て、よく私を誘いお得意さん回りをしてくれました。お役所や会社へ行くのです。遠いところは電車に乗ればいいのに、市丸さんは「おかあさん、おないどしを使いましょう」と言って歩くのです。「おないどしを使う」のが、どうして歩くことなのかよく分かりませんでしたが、とにかく少々雨が降っても平気で歩きました。
先方へ顔を出すと、どこでも大変な人気。「よう市丸来たか」「いっちゃん、ゆっくりしていきや」とみなさんが声を掛けてくださり、その夜さっそく店へ来てくださるお客さんもいらっしゃいました。
店でのお客さんの扱いも心得たもの。私がお客さんに「はし拳」で勝ち続けたりすると「三回に一回は負けんといきません」と小声で注意してくれました。
ごひいきになっているお宅でご不幸があった時は、よく二人でお葬式にまいりました。「お祝いごとはご案内がないとうかがえませんが、お葬式はそうではないですからねえ。つとめて行くことにしましょう」と新聞広告にはいつも注意しておりました。この教訓はいまも守られています。

公平局長のお気に入り

昭和四十六年から二年間高知営林局長だった公平秀蔵さんも、市丸さんをひいきにしていた一人でした。
初めてお見えになった日、お相手をした市丸さんが翌日、私に「今度の局長さんはなかなかしゃんとした方ですよ」と耳打ちしてくれました。それは、立派な方という意味のほかに、ちょっと気難しいところがあるというような口ぶりでした。そのころ、営林局は一番と言っていいほどのお得意でしたので、市丸さんも気になったのでしょう。
次にお見えになった時、座敷に出た私があとで市丸さんに「あんたが言うほどのことはないじゃいか」と申しますと、市丸さんはこんなふうに教えてくれました。
「気に入らないと口に出しておこる人はしよいが、あの局長さんは口に出しません。そのぶん、気を配ってあげないといきません」
口に出す代わりに、ひたいの筋がぴくぴくっ動くというのです。さすがだな、と感心しました。公平さんは、お飲みになるのはビールだけ。それも普通の半分くらいの小さなグラスでお飲みになるのが好きでした。市丸さんと二人で、専用のグラスを買いに行ったほどです。
私より一回りほど年上だった市丸さんはだいぶ前に亡くなりました。入院した時、どこで聞いたのか公平さんが県外からお見舞いにきてくださいました。「早く元気になってね」と励ます声に、市丸さんの顔が嬉しそうでした。


20.お四国参り

家族、店のことも忘れ

白装束を身につけ、かわいい孫を連れてのお四国参り。 左端が筆者(徳島県の藤井寺)

私が「お四国参り」を始めたのは三十年ほども前のこと。当時、東京の高校に通っていた二男が交通事故に遭いましてね。大きな手術をして、それが治ったお礼に夫婦ではじめたのです。
そのうち、その子が運転免許をとったので、休みで帰ってきた時には乗せてもらい、親子三人で回りました。最初は札所についての知識は全くなく、道を尋ね尋ねてのお札参り。八十八カ所を全部回るのに二年くらいかかりました。
次は塩見俊二先生の夫人後援組織「さんご会」の会長で、産婦人科のお医者さんだった寺尾澄江先生と一緒に回りました。寺尾先生とは、さあ五回くらい回ったでしょうか。先生は、ご自分がお医者さんなのに「濱長さん、世の中には科学だけでは解決できないことがいっぱいありますよ」と、よくおっしゃっていました。
私も回を重ねるごとに、目に見えぬ何かにひかれ、心のやすらぎを覚えるようになりました。二男のけがが札所回りを始めたきっかけでしたが、重い足をひきずりながら石段を上がり、ご本尊の前に手を合わせると、家族のことも店のことも忘れ、無我の気持ちになれるようになりました。
寺尾先生のあと、現在は主人の妹と誘い合って回っています。春になれば桜が咲くところ、秋は紅葉が美しいお寺、という具合。ことしも三月に十九カ所回って参りました、
平成三年は五歳の孫を初めて連れて行きました。この子は生まれたばかりのころ、病気で幼い命を失いかけたことがあります。それがすっかり丈夫になり、私たちと同じようにお経を唱え小さい手を合わせるではありませんか。そのいじらしい姿を見て、周りの人が「まあ、お稚児さんみたい」と言って、頭をなでてくださいました。

大変身した部長さん

うちの店のお客さんの中にも、私の話を聞いて「お四国参り」を始めた方がいらっしゃいます。昭和五十八年ごろ高知営林局の経営部長だった林寛さんもその一人です。
ある日、私が愛媛県の横峯寺に行くのを知り、「どうしても連れて行ってくれ」と言い出しました。そして約束の日、がっちり登山靴をはいて現れました。さらに驚いたのは、向こうで車を降りてからの山道を勢いよく歩き通されたことでした。
考えてみれば、営林局のお役人ですから山道には慣れていたのでしょうが、私は宴席での林さんしか知らなかったので驚きました。
これがきっかけで、林さんはその後も札所回りを続けていたようでしたが、しばらくしてまた私がびっくりすることがありました。
ある日、林さんがうちの店で主人と話し込み泊まったことがございました。翌朝、私が食事の支度に起きると、どこからかお経が聞こえるではありませんか。不思議に思って行ってみると、なんと林さんが一心不乱に般若心境をあげていました。その姿は、まるで本当のお坊さんのようでした。
林さんは翌年、県外に転勤になりましたが、昨年の夏、突然電話をくださいました。そして、とうとうお坊さんの資格をとったと言うのです。これには、またまたびっくりしました。
林さんをそこまでひきつけたのが一体何だったのか。それは私にも分かりません。