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初代女将・千代子の日記

6.仮谷さんの涙

離れで県議会の作戦

昭和二十三年、南はりまや町に移転したころには、県議会や国会の先生方もよくお見えになり、私も政治の世界を裏側から垣間見る機会が多くなりました。
知事が桃井直美さんから川村和嘉治さんに代わったのが昭和二十六年十二月。それからの四年間、野党に回った当時の自由党県議団は川村知事をやっつけるのに必死でした。県議会が近づくと、仮谷忠男、田村良平、井上六助さんらが連日お見えになり、あれこれ作戦を練っていらっしゃいました。
お使いになるのは「桜の間」という離れの四畳半。ご用はほとんど私がいたしましたが、こみいった話になると「ちょっと外してくれ」とお人払いになり、それはそれは真剣でした。
店の仲居さんを連れて質問戦の傍聴にもまいりました。後に衆議院議員、建設大臣にもなった仮谷先生の質問は、余分なことをあまり言わず、まっすぐ心臓部をつくような鋭さがございました。
受けてたつ川村知事さんも負けてはいません。頭の上を風が通り過ぎるのを待つのではなく、言われたら言い返す激しさ。お二人とも小柄でしたが、それは迫力がございました。

塩見さんに気を遣う

建設大臣室での仮谷忠男さん(中央)と筆者(右から2人目)

仮谷先生が衆議院議員に初当選なさったのは昭和三十五年十一月の選挙です。亡くなった林譲治先生の後を継いだ形でしたが、ご本人は衆議院議院の塩見俊二先生に随分気を遣っていらっしゃいました。塩見先生に衆院へ回ってもらい、ご自分は参議院へとのお気持ちも当初はおありのようでした。
ある日、そのことを塩見先生にひいきになっていた私の口から伝えてほしい、とのお話がございました。そんな大事なことを私のような者が、と思いましたが、表だった話でなく、というのが仮谷先生のお気持ちと考え、塩見先生がお見えになった時その通り申し上げました。
しかし、それをお聞きになった塩見先生のお顔の恐ろしかったこと。
「おかあ、お前は料理屋のおかみじゃろうが。酒を売りよったらええ」
あとは取りつくしまがありません。困った私が主人に相談すると、「それは塩見先生の言う通りじゃ。わしらあが口出しすべきことじゃない」というのが主人の意見でした。
そこで、夫婦で仮谷先生にお目にかかり「選挙のことは私どもを通すより塩見先生と直接、納得のいくまでお話し合いになったらいかがでしょうか」と申し上げました。
その後しばらくして、仮谷先生から私ども夫婦に改めてお話がございました。「お二人のご意見どおり、塩見先生と話し合いをしようと思ったがなかなか会える日がなかった。そのうち私の後援会がどんどん動き出し、もう後へは引けなくなった。わたしは衆議院選に出ることを決めました」
こうおっしゃると、両手をついて、ぼろぼろと涙を流された仮谷先生。誠実そのものの姿に主人も私も感極まって涙をおさえることができませんでした。
国会議員になってからの仮谷先生はとんとん拍子。昭和四十九年十二月、三木内閣の建設大臣になりました。そのときは大臣室までお喜びにおうかがいしましたが、小柄な先生があのときほど大きく見えたことはございません。


7.池田さんの電話

「塩見を男に…」

池田勇人さん(前列真ん中)、塩見俊二さん(同右端)を囲んで。後列右から3人目が筆者(昭和31年・濱長)

参議院議員で厚生大臣、自治大臣にもなった塩見俊二先生は、まだ大蔵省に在職のころからお店にお見えになり、仮谷先生以上の深いおつき合いをさせていただきました。単なるお客様としてではなく、お人柄にひかれた私ども夫婦を、先生も奥様もまた身内同様に扱ってくださいました。
塩見先生がはじめて選挙に立候補されたのは、昭和三十一年七月の参議院全国区です。なんと言っても出身地の高知県が最重点地区で、地盤固めにはだいぶ前から努力されていました。そんなある日、大蔵省の先輩である池田勇人先生が応援に来高され、一緒にお店へお越しになりました。
池田先生が総理になる四年前のことです。さすがに威厳がありましたねえ。お酒も強く、初めのうちは私ども夫婦を話し相手にお二人ともコップでお飲みになっていました。ところが、しばらくすると、池田先生が突然、コップを置かれて「ちょっとそこへ座ってくれませんか」とおっしゃるではありませんか。
何事かとかしこまると、座布団を外した池田先生が正座して両手をつき、こうおっしゃいました。
「塩見はいいやつです。お二人の力でどうぞ男にしてやってください」
なにしろ天下の池田さんです。あまりのことに、主人と私はただ顔を見合すだけ。緊張して一言もお返事することができませんでした。その夜は親しい方を招き、両先生を囲む小宴となりましたが、お二人の友情をつくづくうらやましく思ったことでした。

ダブルの背広を新調

空路帰京する池田勇人さん(中央)を囲んで。左端が筆者、右端は夫・八郎(高知空港)

さあ、それからは大変です。主人も私も塩見先生の応援に必死になりました。主人はダブルの背広を新調して秘書代わり。先生が県内を回るときは必ずついてまいりました。
それについて面白い話があります。先生は車では助手席がお好きでしたので、主人が後ろに座って出かけることがよくありました。それはいいのですが、向こうについて後部座席から降りるダブルの主人を見て、現地の方が先生とよく間違えたそうです。そんな日は、帰ってくるなり先生が「おかあちゃん、きょうはだんながえらいもてたぜよ」と冗談をおっしゃいました。
さて、投票は七月八日。全国区の開票は九日になってからでした。私たちは店の一室で、気心のしれた方たちと情報を交換しながら一喜一憂していました。
高知県内での塩見票は文句なくトップでしたが、目標にしていた十万票には届かず七万三千五百十票。このため悲観的な見方をする人もいて、私は気が気ではありませんでした。
そんな重苦しい空気が漂い始めた真夜中の十二時ごろ、東京から帳場に電話がありました。なんと池田先生からです。慌てて私が出ますと、あのしゃがれた声で「おかみさんかい。塩見当確」たったそれだけで電話は切れました。私は塩見先生の当選確実はもちろんですが、それを少しでも早くと、ご自分で電話してくださった池田先生のお気持ちがうれしくて、涙がほおを伝うのをどうすることもできませんでした。
塩見先生の最終得票は二十九万四百三票。当選した五十二人のうち三十位でした。


8.塩見VS坂本

「さんご会」を結成

塩見俊二さんらを囲んで開かれた「さんご会」のパーティー

塩見俊二先生にとっては二回目、昭和三十七年の参議院選挙は大変でした。全国区だった先生が高知県地方区へ回り、地方区選出の社会党、坂本昭先生と現職同士の対決だったからです。
後に高知市長になった坂本先生はもともとがお医者さん。聴診器を手に県内をこまめに回り人気を集めていました。一方、塩見先生は同じ参議院でも全国区だったこともあり、どうしてもなじみが薄くマスコミの下馬評でも坂本優勢の声が圧倒的でした。
そこで、気が気でなかった私は、先生の秘書の森下茂兎美さんのご依頼を受け、婦人票を集めるため女性だけの後援会結成のお手伝いをすることになりました。


「さんご会」の奨学資金増成パーティー

それまで、選挙での女性の役割は事務所などでの裏方が関の山。いまでこそ大きな選挙では婦人部隊が活躍しますが、少なくとも県内では、私たちが初めてでした。
産婦人科のお医者さんだった今は亡き寺尾澄恵さんを会長に「さんご会」という組織をつくり、土電会館のホールで結成大会をしました。「さんご会」の名称には、寺尾さんが産婦人科の先生だったので、さんごの肥立ちがよくという気持ちと、サンゴのように土佐を代表する政治家になってほしいという、塩見先生に対する願いが込められていました。会員にはサンゴのバッジをつけてもらうことにしました。製作費は一個二百五十円。寄付集めに大阪など県外にもまいりました。
結成大会は大成功。来賓だった当時の溝渕知事さん、高知商工会議所の西山会頭さんらも熱気でむんむんする会場を見て「おかあちゃん、えらいもんじゃのう」と驚いていらっしゃいました。

県外からの応援部隊

もう一つ、この選挙で大きな役割を果たしたのは県外からの応援でした。お酒屋さん、薬屋さん、お菓子屋さん、それこそ、ありとあらゆる業界の方々が塩見先生の応援にまいりました。この方たちは決して表面には出ません。私どもの旅館を根城に、取引先などを通じ票固めをしていたようでした。
でも、このことは絶対に秘密で、主人に固く口止めされていました。県外から応援がたくさん来ていることが分かると、相手方にそれを封じ込める手を打たれますし、味方の陣営内にも感情的な反発を招く心配があったからです。
土佐人はやや排他的なところがあります。だから「それほど県外の人にやってもらうのだったら、わしらあ手を引く」という声が出はしないか、と気を遣ったのです。


参議院議員選挙中のひとときをくつろぐ塩見俊二夫妻(「濱長」別館=高知新聞社提供)

このような努力が実り、選挙の結果は、
塩見俊二 二一八九三三 
坂本 昭 一六〇二四八 
林田芳徳 一七一二九 

まさに予想を覆す大勝利でしたが、この選挙が終わると、夫の濱口八郎は個人的なお付き合いは別にして、先生の選挙からは一切手を引きました。
その理由を当時の福田義郎高知新聞社長に聞かれ、主人が次のように答えていたのを覚えています。
「これまでの塩見選挙は手押し車みたいなもんじゃったが、これで立派な自動車になった。もう私らあが出る幕ではありません」
それほど、この選挙は塩見先生にとって重要な選挙だったのです。


9.塩見さんと酒

「お水」と「お酒」

塩見俊二先生は本当にお酒が好きで、お強うございました。私どもの店でも、夜が明けるまでお飲みになることはしょっちゅう。
よく「湯のみでやれば酒でも茶になる」とおっしゃっていましたが、その言葉どおり、いくら飲んでもお酔いになることはなく、ご自分の口から「もう、これでやめよう」とおっしゃることも全くありませんでした。
私の主人はお酒をいただきませんでしたので、お相手はいつも私。お酒をつぎながら色んな話の聞き役で、それが私にとって人生についてのよい勉強にもなりました。
お酒のあとは、あんまさんをとるのが習慣でしたが、あまり先生のお酒が長いので、隣の部屋で待ちくたびれたあんまさんが居眠りをしていたこともありました。
選挙中も、宿舎にしていた私どもの別館をお出かけになるときは、玄関で「お水」と催促されるのがお決まりでした。
たいがいは、私が心得ていてコップに冷や酒を入れてお出ししていたのですが、たまたま代わりにお手伝いさんがお見送りしたことがございました。
ところが、そのお手伝いさんが、先生に言われたとおり正直に水を入れて出したのです。コップに口をつけた先生は途端に変な顔をして「ありゃ、こら水じゃいか」と、おっしゃったそうです。
後でこの話を聞いた私は大笑い。先生のおっしゃる「お水」は「お酒」のことだから、と教えたことでございました。
そんな調子ですから、街頭演説などのために回られたときも、途中に酒屋さんがあると、隠れてコップ酒をきゅっと召し上がっていたことがときにはあったようです。もちろん、それで演説がおかしくなるような先生ではございません。のどの調子を調える、それこそ「お水」の役割を果たしていたのでしょう。

黙って酢を飲む

高知市の商店街で立候補演説する塩見俊二さん(高知新聞社提供)

お酒とお水を間違えた程度ならよかったのですが、最初の選挙に出るため県内の地固めをしていた昭和三十一年、高岡郡日高村で大変な間違いがございました。能津の片岡万造さんという支持者のお宅に立ち寄られたときのことです。玄関でその家のお手伝いさんに、先生が手まねでコップ酒を所望されたようです。
ところが、そのお手伝いさんがお酒と酢を間違えたらしいのです。それを先生は何もおっしゃらずお飲みになったものですから、秘書役として付いていた私の主人はもちろん、だれも気付きません。
翌日、片岡さんが大慌てでおわびにきて、初めて分かったのです。そのことについて先生ご自身は何もおっしゃいませんでしたが、おそらく先方のお手伝いさんに恥をかかせてはいけない、とのお気持ちで我慢して酢をお飲みになったのでしょう。
「えらい、あの男はまっことえらい」
感心した主人は、ますます傾倒するようになりました。
「それにしても、酢をコップに一杯ぎゅうっと飲んだときはどんなじゃったろうのう」主人は生前、塩見先生の話になると口癖のようにこう申しておりました。


10.秘書の森下さん

野中県議の選挙が縁

塩見さんの秘書・森下茂兎美さん(右)と筆者 (旧「濱長」玄関前)

塩見俊二先生との思い出を書くのに、最初の秘書だった高岡郡日高村出身の森下茂兎美さんのことに触れぬわけにはまいりません。それは、森下さんを先生に推薦したのが私たち夫婦だったと言うことだけでなく、先生の秘書として、誠心誠意尽くしていた姿に心打たれるものがあったからです。
私が森下さんを知ったのは昭和三十年四月の県議会議員選挙の時です。高岡郡選挙区で立候補していた野中慶太郎さんの会社が高知市南はりまや町の私の店の前にあり、そこに森下さんも出入りしていました。
当時の高岡郡選挙区は須崎市も含まれていて定数は九。これに二倍以上の十九人が立候補、なかなかの激戦でした。野中さんは三期目でしたが、投票日が迫り票読みしたところ、どうしても少し足りない。そこで「一票でも二票でも」と、私たち夫婦に頼みにきました。主人は中土佐町、私は窪川町の出身で、郷里に身寄りがいたからです。
「よっし、行ちゃれや」と主人に言われ、私は親類や友達のところを回り、野中さんへの投票をお願いしました。選挙の結果、野中さんは四千六百四十八票。当選した九人の最下位で、次点の人とはわずか七十二票差の滑り込みでした。
その時、森下さんがきて「濱長さん、野中が当選できたのはあなたがたのおかげです」と男泣きにないてお礼を言ってくれたのです。その誠意のある姿が強く印象に残りました。
その年、塩見先生は大阪国税局長を退職、翌年七月の選挙で参議院議員になりました。ところが、秘書にと考えていた大蔵省時代の部下の方が都合できなくなり、私たちに「だれか、ええ人はおらんろうか」と相談がありました。その時、主人も私も即座に森下さんを推薦したのです。

酒を断って誠心誠意

秘書になった森下さんはお酒をぴったりやめたそうです。前回書きました通り、先生が私を相手に夜遅くまでお飲みになっている時も、一滴も飲まず隣の部屋で待っていました。
だから、私は森下さんがもともとお酒を飲めないのだと思っていました。秘書をやめた後で私のお店へきた時、本当はお酒を飲むのだと知ってびっくりしたほどです。
先生は無類のお酒好き。お酒でぐっすり寝込み、列車の寝台から転げ落ちたこともあるそうです。もし何かあって名前にキズが付くようではいけない。それには秘書が一緒になって飲んではいけない。こう決心してお酒を断ったのだそうです。
森下さんは先生の選挙でも随分働きました。昭和三十七年、高知県地方区で坂本昭さんと激しい争いになった時は、私の主人と一緒に先生を案内して県内をくまなく回りました。めったに人を見かけない山奥まで連れていかれた先生が「高知では猿やタヌキにいつ選挙権ができたがぜよ」と冗談をおっしゃったそうです。車を降りて山道を歩くので、森下さんの足にはマメができていました。
約十年務めた森下さんは昭和四十一年、先生が佐藤内閣の自治大臣になった時には秘書をやめていました。下積みの苦労をした森下さんに、いつか晴れがましい日がくるのを願っていた私は、それがただひとつ残念でした。