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初代女将・千代子の日記

21.千代の富士関

まるで役者さんの印象

横綱千代の富士関(左)、二代目若乃花関(右)と筆者(昭和57年)

先月、千代の山関と佐田の山関の思い出を続けて書きましたところ「千代の富士のことはどうして書かんがぜよ」と言うお客さんがいらっしゃいました。うちの店のフロントに千代の富士関が使っていた横綱をガラスケースに入れて飾ってありますので、その方は当然、次に千代の富士関が出てくると思っていたのでしょう。
平成四年四月から元北の富士関と交代して九重親方になった小さな大横綱、千代の富士関との出会いは昭和五十三年に再入幕したころ、親方に連れられてうちの店に来たのが最初でした。
白の大島を着て、きりりと引き締まった顔。ご存じの通り体はお相撲さんにしては小さく、見たところ役者さんのような感じでした。正直言って、私は「これくらいの体では、大して出世できないだろう」と思っていました。
事実、そのころの千代の富士関は肩を脱臼することがよくあって、成績にもむらがありました。うちの主人も「あいつは小さな体の割に大きな相撲を取るからなあ」と、嘆いていました。
ところが、五十五年に何回目かの三役入りをしたころから急に強くなり、次に店へ来た時には大関になっていました。その時はさすがに堂々としていましたが、ちょっとふてぶてしいところがあり、私はあまり好きになれませんでした。
それが、大関わずか三場所で横綱になり、その後で来た時は、すっかり物腰が変わり、私にもきちんと「お世話になります」とあいさつしてくださいました。その時、私は初めて千代の富士関と話をしました。私がお相撲さんになったわけを聞くと「亡くなった先代親方(元千代の山)に、飛行機に乗せてやるから、と言われましてね。それにつられて北海道から出てきました」と言っていました。

本場所のたびにのぼり

本場所のたびに玄関に立てていた千代の富士関ののぼり(旧「濱長」本店)

残念だったのは六十二年四月、高知巡業で来た時のことです。主人は入院していましたが、たいそう気にかけていて、長男を高知空港まで迎えにやりました。ところが、教えてもらった時間が違っていて、長男が空港に着いた時はもうどこかへ行ったあと。とうとう主人に会わせることができませんでした。
「お前のブンがたたんき、よそへ連れていかれてしもうた」と長男をしかっていた主人は、きっと鏡川べりに移転した現在の新しい店で千代の富士関をもてなしたかったのだと思います。
千代の富士関は平成二年四月、もう一度巡業で来ましたが、残念なことにその前年、主人は亡くなっていました。だから。千代の富士関が新しい店に来たことはありません。主人の気持ちを思うと、私もそれが心残りです。
移転前、店が南はりまや町にあったころは、本場所のたび、玄関に「千代の富士関江」と染め抜いたのぼりを立てていました。もちろん、のぼりは主人が作らせたのですが、立てるのは私の知らない人でした。おそらく千代の富士関のファンだったのでしょう。場所が始まると、いつもやってきて、勝手に物置からのぼりを取り出し、立てていました。
主人がなくなり、千代の富士関も引退したいま、あののぼりがうちの店に立つことはもうありません。


22.北の富士関

親しみやすく男前

横綱時代の北の富士関(中央)と当時の九重親方夫妻

大相撲の九重部屋はいま、元千代の富士関が継いでいますが、この部屋は私ども夫婦がたいそうひいきにしておりました元千代の山関が興した部屋でございます。その後を元北の富士関(現陣幕親方)が継ぎ、そして現在に至っております。三代の親方がそろって元横綱ですから、たいしたものです。
千代の山関は、昭和三十四年に引退、しばらくは出羽一門の親方としてとどまっていましたが、三十九年に独立し現在の九重部屋を興しました。その時、まだ入幕したばかりの北の富士関も一緒に出羽の海を出ました。ほかの部屋と違って、出羽一門は分家を認めていませんでしたし、なにしろ大相撲界屈指の名門ですので、九重部屋の独立はいろいろ論議を呼び、親方はもちろん現役だった北の富士関もなにかとご苦労が多かったようでした。
そんな男意気にもほれたのでしょう。九重部屋ができると、うちの主人はますます親方や北の富士関に肩入れするようになりました。なにしろ、店が南はりまや町にあったころには相撲好きのお客さんに喜んでもらえるよう「九重部屋」という部屋があり、床の間に千代の山関の書を掛け軸にて飾ってあったほどです。
北の富士関が、うちの店にくるようになったのは、引退した千代の山関が独立する前、出羽の海部屋付きの親方をしていたころからでした。高知巡業の際、親方に連れられてきたのが最初だったと思います。その時はまだ関取に出世する前でしたが、すぐ十両、幕内と上がっていきました。ほれぼれするような男前のうえ、性格は親方のよいところをそのまま受け継いだように親しみやすく、ユーモアもたっぷり。のちにレコードも出したほどですから歌もうまく、店でもたちまち人気者になりました。

賀世さんをお嫁に

明るい人柄にひかれて、私の子どもたちも北の富士関とすっかり仲良しになっていましたが、特に二女の賀世とは年齢が一緒だったこともあって、なにかと話があっていたようでした。
ある時、ふっと私に「出世したら賀世さんをお嫁にくれませんか」と行ったことがあります。そう、賀世が高校の終わりころだったでしょうか。まだそんなことを考える年でもありませんでしたので、私は娘には何も言わず、聞き流していました。ところが、それから何年かたち立派になって店にきた北の富士関に「お嬢さんはどうしてますか」と尋ねられたのです。その時、娘はもう婚約をしていましたので、正直にそう申しますと、急に口数が少なくなり黙って店を出て行ってしまいました。その後は、現在の高知大丸東館のところにあったキャバレー「リラ」に行き、ちょっと荒れたのでしょうか。困った「リラ」から電話がかかってきて、主人が慌てて迎えに行ったのを覚えています。

おかみの日記 出版祝賀会で


陣幕親方(左から2人目)と濱田四国銀行頭取(その右)

しかし、そんなことがあってからも、北の富士関と私たち夫婦とのお付き合いはまるで何もなかったかのように続きました。陣幕親方になったいまでも時々、店にくると、連れのお客さんに「いやあ、亡くなったここの親父さんには頭が上がらんかった」と話していますが、それはおそらくあの時のことを言っているのだと思います。大関、横綱と出世しても相変わらず天衣無縫。気っぷもよく、ひいきからご祝儀をいただくと、おひねりをいくつもつくって両方のたもとに入れ、お弟子さんたちが手を突っ込んで分けてもらっていました。店の仲居さんが一緒になって手を突っ込み、きゃあ、きゃあと大騒ぎしていたこともありました。
この「おかみの日記」を最初に出版した時の祝賀会にも、陣幕親方はわざわざ駆けつけて、スピーチもしてくだざいました。一晩泊まった翌日は、空港まで賀世が送ってまいりましたが、車の中で一体どんな話が弾んだのでしょうか。あの時の話が出るたびに娘は「お母ちゃんが北の富士さんのことをちゃんと言うちょってくれたら、私の人生が変わっちょったかもしれんねえ」と冗談を申しております。


陣幕親方(中央)と筆者(左端)。右は長男の友良


23.「涼しさ」で売る

夕立ち降らす工夫も

旧「濱長」の正面入り口。玄関横の小さな庭にも涼しさを感じさせる工夫(高知市南はりまや町)

戦争が終わって間もなくの昭和二十年代は、どの料亭にも冷房施設はありません。私どもの店が高知市丸ノ内から南はりまや町に移った後も、しばらくは扇風機でした。それも、一つの部屋に二つ置くのがせいぜい。お酒が入ると「暑い、暑い」とおっしゃって、ランニング姿になるお客さんもいらっしゃいました。
そこで、私が考えたのが「夕立を降らせる」ことでした。「おおの暑い。夕立でも降らんろうか」とおっしゃるお客さんの言葉にヒントを得て、なんとかできないものか、と知恵を絞ったのです。
と申しましても、私が考えることですから方法は至って簡単。部屋の軒下のトイに沿って小さなビリール管をぶら下げ、その管に二十センチくらいの間隔で下向けに穴を開ける。そして水道から水を流す。蛇口をひねると管を水が通り、思っていた以上にうまく穴から「雨」が降りました。お客さんの間でも「やったもんじゃ。濱長へ行くと、天気のええ日でも雨が降る」と評判になりました。
しかし、この名案も水を出しっ放しにすると水道代がかさみますし、忙しい時に蛇口を開けたり閉めたりするのも大変だったので、ひと夏かふた夏くらいでやめました。
次は各部屋の天井に大きな羽の扇風機を付けました。これは昭和二十六、七年ごろ、主人が大阪国税局長だった塩見俊二先生をお訪ねして、向こうの料亭に招かれた時、天井に立派な扇風機が付いていたのに目をつけ、さっそく十台ほど注文して帰ってきました。
「ええもんを買うてきたぞ」と自慢する主人の言うままに、当時七つあった部屋の全部に取り付け、余った機械はほかの料亭に分けてあげました。私は競争相手のよその店に分けるのはいやでしたが、主人に「そんな了見の狭いことでどうする」と言われ、しぶしぶお譲りしました。

地下水くみ上げ冷房

それから一、二年たって次はいよいよ冷房です。当時は家庭用も現在の空冷式ではなく水冷式。お隣にあった第一生命さんの敷地を畳半分ほどお借りして、そこに井戸を掘り、くみ上げた地下水を冷房機に使いました。
主人は「こんなにすき間がいっぱいある部屋で冷房したちいくか」と反対でしたが、この時は私が強引にやりました。高知の料亭で冷房をしたのは、うちが一番早かったと思います。
夕立を降らせた時と違って、これには相当お金がかかり、銀行から融資を受けましたが、そのかいあって評判は上々。最初の夏は連日満席で、大いに繁盛しました。
しかし、翌年になると、同業のどの店も冷房を始め「涼しい濱長」を売り物にすることはできなくなりました。おかげで、冷房設備にかかった費用はなかなか取り戻せませんでした。
それより困ったのは、地下水をくみ上げるポンプがいつ故障するか分からぬことでした。これが止まると全くお手上げ。お客さんからは苦情がでますので、電話を掛けるといつでも直してもらえるようポンプ屋さんに手配しておりました。
それでも不安でしたので、天井の扇風機もしばらくは取り外さず残してありました。冷暖房が完備した現在では、まるで笑い話のような思い出です。


24.日本一の本部長

懐かしい「湯島の白梅」

首相秘書官になった金沢さん(前列右から3人目)の送別会で。金沢さんの左が筆者(旧「濱長」)

昭和四十八年八月から一年間、高知県警本部長をされた金沢昭雄さんは、のちに警察庁長官にまでなっただけあって、私どもの目から見ても、それは素晴らしい方でした。
まだ本部長に発令される前、既にその人事をご存知だった参議院議員の塩見俊二先生が私に「おかあ、今度来る本部長は日本一じゃき、大事にせないかんぜよ」と教えてくださいました。その先入観があったのかもしれませんが、歓迎会で私どもの店に初めてお見えになった時の金沢さんは、きりりと引き締まり、スマートに見えました。それでいて、周りの人に対する態度は優しく人を見る目はこえていたつもりの私も感心することばかりでした。
お酒は強く、歌もお得意。歓迎会でも、すっくと立って「湯島の白梅」をお歌いになりました。若いころ署長をしていた警視庁本富士署の管内に「お蔦・主税」の湯島天神があったので、この歌をずっと「十八番」になさっていたようでした、
高知での生活に慣れたある日のこと「おかみさん、今度の休みにドライブに行こう」と誘ってくださいました。うれしくなった私は朝からよそ行きの着物を着込んで待っていました。何と言っても本部長さんだから、運転手付きのばんとした黒塗りの乗用車でお見えになると思っていたのです。
ところが、やってきたのは案に相違して白い小さな中古車。ノーネクタイで軽装の金沢さんご自身が運転していました。私はいまさら着替えもできず、そのまま助手席に乗せてもらい、大豊町まで行きました。そこでコーヒーをごちそうになり帰ってきましたが、周りに人々の目にはどう映ったでしょうか。いま思い出してもおかしくなります。
県警の方に聞くと、公私の別は非常にきちんとされていて、在任中、よくご自分の車でお出かけになっていたようです。

杉原秘書官が推薦

その金沢さんが、本部長わずか一年で高知を去ったのは、当時の田中角栄首相に秘書官として迎えられたからでした。四十九年七月、参議院選挙の遊説で来高した田中首相は、宿舎の城西館で金沢本部長と一緒に夕食をされました。
その夜、県警総務室長だった野瀬伝一郎さん(現土佐電鉄専務)が、金沢さんの警察庁の一期先輩で首相秘書官をしていた杉原正さんという方をご案内して、うちの店にお見えになりました。お二人のお話から察すると、警察庁に帰る時期がきた杉原秘書官が後任に金沢さんを推薦、それで田中首相がお呼びになったようでした。
金沢さんが首相秘書官に決まり高知を離れる時、高知新聞社の今は亡き梅原薫明さんや社会部方たちがうちの店で送別会を開きました。その時、梅原さんが私にそっと「金沢さんは十年したら長官になる。覚えちょきよ」と耳打ちしてくれました。
十年というわけにはまいりませんでしたが、金沢さんは六十三年一月に警察庁長官になり、在任中に一度、鏡川べりの新しい店にきてくださいました。
本部長のころと変わらぬ若々しい金沢さんにお会いして、私は「湯島の白梅」をお歌いになった歓迎会のことを思い出しました。


25.「長生苑」

思わぬ融資に感謝

私が高知市南はりまや町の「濱長」と背中合わせの電車通りで焼肉店「長生苑」を開いたのは昭和三十七年でした。当時、四人の子供は学校や嫁ぎ先の関係ですべて東京住まい。ある時、上京した私を二女の賀世が連れていってくれたのが、私には初めての焼肉屋さんでした。そして「高知でも、こんんな店を開いたらはやるぞね」という二女の言葉に「よっし」と思い立ったのです。
しかし、高知へ帰って話をすると、万事慎重な主人は「やちもないことをするな」と言います。やむなく一人で四国銀行に融資を申し込みました。「担保もないのに…」と主人は猛反対です。私も、やっぱり駄目だろうと諦めました。
そこへ偶然、それまで全く取引のなかった高松相互銀行(現兵庫銀行)高知支店の川竹光男さんという方が預金の勧誘に来ました。融資を断られかっかしていた私が「預けるどころか、お金がのうて困っちゅう。三百五十万円ばあ貸してくれんかね」と申しますと、川竹さんが「二、三日待ってくれませんか。相談してみます」と言うのです。
「担保もないのに貸してくれるはずがない」と思っていた私は、約束通り二、三日してやってきた川竹さんが「本店と相談した結果、融資することにしました」と言ってくれた時には、うれしいやらびっくりするやら。一瞬ぽかんとしました。
後で聞くと、当時の高松相銀の社長さんが、かつて大蔵省高知財務部長をしていたころ、うちの店を利用してくださっていたうえ、私たち夫婦と特別な関係にあった塩見俊二先生とお知り合いだったことが分かりました。その社長さんが「責任は僕が持つから貸してあげなさい」と言ってくださったそうです。川竹さんは現在、明星産商という会社の副社長になっていらしゃっいます。

大当たりの焼き肉店

こうして開業資金ができ、焼き肉店は料亭東側にあった子供用の別棟を壊して新築しました。最初反対していた主人も、いざとなると徳島からインテリアの人を呼んでくれるなど協力してくれ、斬新な、ぱりっとした店ができました。白い壁に黒の格子。このコントラストが実に鮮やかでした。
料理人は二人。大阪の有名な朝鮮料理店に一人一ヶ月ずつ勉強にやりました。秘伝のたれも特別に教えてもらい、味は上々。高知にまだ焼き肉が珍しかったこともあり、しばらくはお客さんの列ができるほど繁盛しました。
私は料亭のおかみの本業に励む一方、手があくと裏口から「長生苑」へ回り、エプロン掛けで手伝う忙しさ。おかげで、子供たちの学費と東京での生活費は十分稼がせていただきました。
この店は数年後、高知に帰ってきた二女に譲りました。そのころには高知にも随分できていた同業者に負けないよう娘も頑張りましたが、店の敷地を「濱長」本店の敷地と一緒に地主さんへお返しする必要が出てきたため、昭和六十一年に廃業しました、
しかし、子供たちの東京での学費や生活費をこの店でつくらせてもらっただけに思い出は格別。先日、懐かしい「長生苑」のマッチが一つだけ残っていたのを見つけました。そして、シュッとすって炎を見ているうち、思わず波だがこぼれそうになりました。