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初代女将・千代子の日記

26.鏡川べりへの移転

夫の入院中に決める

昭和61年、鏡川べりに移転オープンした現在の「濱長」(↑印) 旧店舗は(↓印)のところにあった(高知新聞社提供)

私どもの店が現在の高知市唐人町に映ったのは昭和六十一年ですが、それまでの南はりまや町では四十年近くも営業させていただきましたので、主人も私も「できれば南はりまや町の濱長のままでいたい」というのが正直な気持ちでした。
しかし、あの店の敷地は川崎源右衛門さんからの借地で、その川崎さんから五十五年ごろ「ホテルを建てるので移転してほしい」とのお話があったのです。
私どもはできれば移りたくなかったので、それから川崎さんと話がつくまでの数年間は、何かと思い悩むことが多く、精神的に本当に疲れました。
皮肉なことに、川崎さんのお住まいは唐人町の現在の店の隣です。移転前はここに私どもの別館があり、川崎さんと私の長男は子供のころ一緒に遊んだ仲。高校と東京の大学も同じでした。
そんな間柄でもありましたので、むげにお断りすることはできませんでしたが、いちばん頭を痛めたのは、移転するにしても鏡川べりの私どもの土地は狭く、南はりまや町の店に比べると半分くらいしかないことでした。主人もそれを心配し、移転には最後まで反対でした。
しかし、どちらかと言えば思い切りのいい私は、いつまでも立ち退きを迫られたままの状態でいるのがいやでした。そんな時、たまたま主人が体をこわし、しばらく入院しました。その間に、申し訳ないと思いながら長男と相談、移転することに決めたのです。主人には、立ち退きの条件など川崎さんとの話がついてから説明、しぶしぶ許してもらいました。
このように、私どもにしてみれば、悩みに悩んだすえの移転でしたが、その跡にホテルを建てるという話はうまくいかなったようで、いまもずっと駐車場として使われています。


松田営林局長の口添え

新しい店は六十年暮れにできましたが、開店は翌六十一年の二月三日「節分の日」にしました。開店を遅らせたのは、縁起をかついだのと、建物だけでなくすべてがきちんと整ったうえでお客さんをお迎えしたかったからです。
いざ移ってみると新しい店はすぐ下を流れる鏡川が敷地の狭いのを十分に補ってくれて大成功。それに「魚梁瀬杉の間」「大正ヒノキの間」など、土佐の銘木を使った部屋を造ったのも好評でした。
しかし、その部屋を造るに当たっては大変な手違いがありました。私どもは最初から「銘木の間」を造るつもりで、建築をお願いした大旺建設さんに言ってあったのですが、どういうわけか、それが十分に伝わっていなかったのです。
ある日、大旺の中谷健社長(現会長)と高知営林局の松田尭局長が一緒にお見えになった時、私が「銘木の間の話をすると、中谷さんが「そんなことは聞いてない。もう小作りが進んでいるので間に合わんかもしれん」とおっしゃいました。驚いた私が「それでは困ります」と言うそばで、松田さんが「土佐の銘木の宣伝にもなることだし、ぜひ実現させてください。材木のことは、及ばずながらお手伝いさせていただきます」と、お口添してくださいまそた。
お陰で「銘木の間」はできました。いま思うと、中谷さんと松田さんが一緒にお見えに、私どもにとって、全く幸運としか言いようがございません。


同姓同名で間違える

金沢警察庁長官(中央ワイシャツ姿)歓迎会での吉村高知商工会議所会頭(向こう側左から4人目)、その右が筆者(平成2年)

鏡川べりへの移転に当たって、もう一つ忘れられないことがあります。それは四国銀行の前頭取で高知商工会議所会頭の吉村眞一さんのことです。
吉村会頭は頭取時代も時々お店にお見えになっていましたが、会頭に就任されてからは、私の主人が商工会議所に関係していたこともあり、利用してくださる機会が多くなりました。
お酒は絶対に熱かんでないと駄目。うちの店では会頭さんの席の近くに五徳を置き、それでおかんをするようにしました。あまりおしゃべりはなさらず、静かに召し上がるのがお好きなようです。
なにしろ高知県経済界トップの方ですので、おもてなしにはかなり気を配っておりましたが、たまたま同姓同名の吉村眞一さんが潮江にいらっしゃるため、移転お披露目の案内状を間違えて出してしまったのです。開店が迫ってミスに気づき大慌て。店を手伝ってくれている二女とおわびにうかがい、改めてご案内しましたところ、にこにこお笑いになって何もおっしゃらず、ほっとしました。もちろん銀行や会議所の方とご一緒に来てくださいました。


27.わが夫濱口八郎

「よさこい祭り」に貢献

夫婦そろっての金婚式の記念写真(昭和61年・「濱長」)

「おかみの日記」もいよいよ終わりです。これまでは、お客さまとの思い出を中心に書かせていただきましたが、最後はお許しを願って私の亡き夫、濱口八郎の自慢話を少々させていただきたいと思います。
それは私が料亭「濱長」のおかみとしてどうにかやってこられたのも、結局は主人の後ろだてがあったおかげだと思うからです。そのことを主人が亡くなってから、つくづく感じるようになりました。
正直申しまして、主人は自分の店の仕事にはそう熱心ではございませんでしたが、人さまに依頼されたり、大勢の人に喜んでもらえることになると大層力をいれました。特に高知県の観光振興には熱心で、高知市の夏の名物行事「よさこい祭り」には、高知商工会議所観光部会の役員だったこともあり、随分と力を入れておりました。生みの親の一人、と言ってもよいと思います。
「よさこい祭り」が初めて行われたのは昭和二十九年。鳴子踊りのあのにぎやかなリズム、鳴子のアイデアなどは、申すまでもなく作曲家の武政英策先生によるものですが、踊りの振り付けについては、主人が日本舞踊各流派のお師匠さんたちとの間に入って苦労していました。
南はりまや町にあった店の大広間に集まってもらい、いろいろ工夫をしておりましたが、お師匠さんたちの振り付けはどうしても、見て優雅な舞台踊りになってしまい、なかなか前へ進みません。これに対し「街頭での踊りなので、回ったり、後ろへ下がったりしていたのでは具合が悪い。とにかく前へ、前へ進むように」というのが主人の意見でした。
それは徳島の阿波踊りなど、先進地の視察も十分したうえでのことでしたが、専門家の振り付けを無視するわけにもいかず、あでやかなお師匠さんたちの中に入って、ああでもない、こうでもない、と注文を付けておりました。
しかし、祭りの日はだんだんと近づいてきます。そこで、一回目は仕方がないと手を打ったのが「三歩進んで、くるりと回り、一歩下がってチョン」という型だったのです。主人はその時のことを「よさこい祭り振興会」が昭和四十八年に出した『20年史』の中で書いております。

励ましてくれた元副総理

それほど「よさこい祭り」に打ち込んでいた主人も一時期、世話役を続けるのがいやになり「もう止めた」と言っていたことがあります。それは、歌詞の中の「じんま、ばんば」とか「よっちょれ、よっちょれ」という言葉にクレームが付いたり、祭り全体を批判する声があったからでした。
めったに弱音をはかない主人が「高知の観光宣伝と思うて一生懸命やりように、悪う言われてはたまらん」とこぼすのを聞いて、私は慰めようがありませんでした。
そんな時、主人を励ましてくださったのが、宿毛市出身で元副総理の林譲治先生でした。小唄もお上手な風流人だった先生は、うちの店へお見えになった時その話を聞いて「濱口君、地方の踊りはあまりスマートでなく、どろくさいくらいがいいんだよ。いろいろ言われても気にすることはない、頑張りなさい」とおっしゃいました。現金なもので、天下の副将軍ならぬ元副総理に励まされた主人は、またやる気を取り戻し「よさこい祭り」により一段と打ち込むようになりました。
その後、鳴子踊りの型はご承知のように年とともに変化してまいりました。主人はむしろそれを願っていたようで、生前よく「街頭踊りは型にこだわることはない。リズムに合わせて、だれでもできる単純な踊りがいい」と喜んでおりました。
平成元年七月二十八日午前一時から約四時間、RKC高知放送が生放送した「朝まで生討論!どうする?よさこい祭り」という番組には、主人もパネリストの一人として出演させていただきました。
実はその時、主人はもう体を悪くしていました。私は「夜中のこともあるので、ご辞退したら…」と申したのですが「高知放送がわざわざオレに声を掛けてくれたのに断れるか」と言って出掛け、放送が終わると上機嫌で帰ってきました。
その三ヵ月後の十月下旬、主人は亡くなりました。テレビへの出演は、未知の世界への旅立ちに当たって、いい土産話になったのかもしれません。

「浦戸大橋」でも一役

あまり知られていませんが、主人は昭和四十七年にできた浦戸大橋の建設にも一役買っています。この大橋は着工前、種崎側の取り付けをめぐって日本道路公団と件の意見が対立、計画が進まなくなっていた時期がありました。
このため、主人が高知県出身で公団の技術部長をしていた方と一緒にゴルフをしていた時、その方から「溝渕知事を説得してほしい」とのお話があったようです。
最初の設計では、らせん状にすることになっていたのを、車時代に備え直線式にしたい、というのが公団の考えでした。それには千松公園の松を少し切らねばなりませんでしたが、将来のことを考えると公団案がよいと思った主人は溝渕さんを説得するのに随分骨を折りました。
その後、完工間近になって公団から「大橋の通行料金徴収の仕事を民間に委託したい。もうけにはなるまいが引き受けてほしい」との話があり、主人と高知出身で仲のよかった大林組の久保内志瑳男さん、国則一夫さんが発起人となって南国道路施設株式会社という会社を設立。平成元年に亡くなるまで主人が社長をしていました。現在は私が務めさせていただいております。
平成元年十月、主人が亡くなった時、葬儀委員長は高知商工会議所の吉村眞一会頭に、というのが遺言でした。心よく引き受けてくださった吉村会頭は弔辞の中で、主人が料飲業界や「よさこい祭り」などに大いに貢献したことを挙げ「観光を通じて高知の活性化をはかるという、あなたの心を心として地域発展のために取り組む所存です」とおっしゃってくださいました。じっと聞いていた私は本当にありがたく、心の中で何度も何度もお礼を申し上げました。

弁当づくりに頑張る

主人と私の間には男二人、女二人の子供があり、孫は十一人、ひ孫も五人おります。この子供たちが中学や高校に通っていたころは大変でした。料亭の後片付けが終わり、私が寝るのは午前二時ごろ。それでも五時にはきっちり目を覚まし、四人子供たちの弁当をつくり、女の子スカートにはアイロンを当てていました。
料亭だから弁当くらいわけないだろう、と思われるかもしれません。しかし、店の冷蔵庫には、おかみといえども勝手に手をつけるわけにはまいりません。眠い目をこすりながら、お惣菜つくりに毎日頑張りました。
お手伝いさんにしてもらったら、と言う人もいましたが、私は子供たちのお弁当は自分で作りたかったのです。それは、私が子供のころ両親を亡くし叔父の家に引き取られ育ったからかもしれません。私が味わえなかった親のぬくもりを子供たちには感じてほしかった。そんな気持ちが知らず知らずのうちに働いていたとも言えましょう。


28.「濱長丸」の復活

観光振興にも一役を

鏡川をゆっくり進む濱長丸

平成元年に亡くなった夫、濱口八郎が願っておりました屋形船「濱長丸」が復活し、店の前の鏡川に浮かんだのは六年十月でございました。昭和二十年代から四十年代にかけて、私どもの店にあった船とほぼ同じ大きさで、全長十三・五メートル、幅四・二メートル。「濱長丸」という船名の付いた、しゃれた姿を目の前にした時には、思わず「おじいさん、できたぞね」とつぶやきました。
十月三日には、たくさんの方にきていただいて、うちの店で「船出の会」を開きました。祝辞を述べてくださったお一人、県議会議員の中平和夫さんのお話では、主人は昭和六十一年、鏡川べりに現在の店が完成した時、「和夫さんよう、ええ店ができたけんど、もうひとつだけやり残しちゅうことがある。この店から船を出したいのう」としみじみ言ったそうです。
この屋形船は「濱長丸」という名前こそ付いていますが、美しい鏡川と浦戸湾をお客さんに楽しんでいただくことによって、高知市の観光振興にも一役買いたいというのが主人の生前の願いであり、店を引き継いだ息子や私どもの願いでもございます。正直に申しまして、建造にはかなりお金がかかりました。しかし、この気持ちがあったからこそ、完成させることができましたし、これからも立派に運航させたいと思っております。

一回、二時間くらいで周遊

船内で和やかに歓談するお客さん

いま「濱長丸」は昼と夜の二回、いずれも二時間くらいかけて鏡川─浦戸湾を周遊。船外の景色をご覧になりながらお料理を楽しんでいただいています。水に浮かぶ料亭の感じを出すため、船の外装・内装は純日本風にして、冷暖房は完備。若い方向けにカラオケもございます。定員は四十五人。準備の都合がございますので、十名さま以上の予約制をとっておりますが、一度お乗りになった方からの口コミもありまして、おかげさまで最近はお客さまが次第に増え、順調に営業を続けております。
ただ一つ残念なのは、このごろの鏡川は水量がめっきり減ったうえ、川底が浅くなっている関係で、私どもの店のすぐ横から船が出せないことでございます。やむを得ず現在は、店の少し東の方で乗り降りをしていただいておりますが、これをなんとかしたい、といつも思っております。
それと、丸山台、巣山、法師ヶ鼻といった由緒ある場所に関する簡単な説明を書いた刷りものを作って、お客さんに見ていただこうかな、というようなことなど、あれこれ考えています。
船ができた翌年の平成七年、私は県外から取り寄せたいろいろな種類の桜の木を三十本ばかり高知市に寄贈し、店の南側の鏡川べりに植えていただきました。この桜は立派な根を下ろし、ことしの春もきれいな花を咲かせました。私は鏡川と浦戸湾が好きなのです。昔のままとはいかなくても、もっともっと美しい姿を取り戻し、屋形船で風流に「土佐の食文化」を楽しんでくださる方が増えていくことを願っています。その時、私の「おかみの日記」は完結するのです。

                    

*補足
この濱長丸は、平成13年に濱長が一度暖簾を下ろした後、
行方がわかりません。
濱長復活の際に、濱長丸も当然ながら復活をさせたく、
総力を上げて探しましたが、高知県外へ流れてしまったのでしょうか。
そこに話が舞い込んだのが、今の「土佐丸」です。
「濱長丸」に比べると小振りではありますが、また違う趣があります。
千代子の植えた桜の木も順調に育ち、濱長を静かに見守ってくれています。
…ただ、常に進化し続けたい濱長です。
「おかみの日記」は永遠に完結しないでしょう。