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再出発のごあいさつ

時代の流れに、ついと押され。 私ども料亭「濱長」が皆様に惜しまれつつ、半世紀以上にわたる歴史の門を閉じたは、平成十三年九月のことでございました。
あれから六年。閉じて月日を経てもなお、お客様が未だに惜しんで下さるお心に、「濱長」という名の重みを思い知らされることも度々ありました。

そしてこの度、私どもは意を決し、再び「濱長」として門を開けることと致しました。まことに僭越ながら、消えゆこうとしている土佐のお座敷文化、その伝統を守れるのは、かつて芸妓や舞妓を抱え、その芸を磨き続けて来た私どもの仕事ではないかと思ったからでございます。
新たな「濱長」でも、土佐の芸妓、舞妓のお座敷芸とともに、土佐のお座敷遊びをお楽しみいただけます。古き良きものを残しながら 、新しきことも取り入れて参る所存です。女性のお客様にもぜひ、お座敷にお運びいただければと存じます。

今、この「濱長」の復活を何よりも喜んでおりますのは、大女将濱口千代子でございます。平成十九年、齢九十三歳を数えますが、お座敷にご挨拶に伺いたいと申しております。
女将三代で、復活のこの佳き日を迎えられますことは、私どもにとりましてこの上ない喜び。濱長のおもてなしの心で、皆様のぜひのお運びをお待ちいたしております。

平成十九年十一月吉日   

大女将  濱口千代子
女将   濱口 賀世
若女将  八松美佐子

初代女将・千代子を見送り、さらに前へと進んでいます

2009年12月8日、濱口千代子は天寿をまっとうし、夫・濱口八郎のもとに旅立ちました。
「お客さまは 何物にも代えがたい財産。おもてなしは、物ではなく真心です」
初代女将のこの言葉を常に胸に抱き、
濱長の歴史を紡いでまいる所存です。

現在は

大女将 濱口 賀世
女将  濱口実佐子
若女将 濱口 咲良

として、濱長をきりもりいたしております。


料亭濱長ものがたり

昭和十二年、高知市菜園場の長屋で
おでん屋「濱口」として創業。
昭和二十一年、料亭「濱長」として土佐のお座敷にあがりました。
濱長の名には末永く贔屓にしていただけるようにとの願いが込められています。


「濱長」は、昭和十二年、小さなおでん屋から始まりました。先代の濱口八郎がまだ、酒屋の店員をしていた頃のことで、生活が苦しく、食べていくのに必死の時代でございました。どうせ酒を売るなら沸かして売れば儲けになると教えられ、高知市菜園場の九軒長屋の狭い家を半分に仕切り、大おかみ千代子が開いたもので、これが「濱長」のまだ名もなきスタートとなったのです。
やがて戦争の足音が近づき、八郎も召集。もし我が身になにかあればと、妻と三人の子供が困らぬように酒の配給権を買い取り、店をやめろという八郎に、千代子は「お金は使うたら減るが、体は使っても減らん。私は働きます」と言ったのだそうで、それはまさに土佐のはちきんの気丈さと申しましょうか。その千代子の決心が今日の礎となりました。


終戦後、八郎は無事戻り、昭和二十一年に永国寺の武藤家のお屋敷を借りて店を始めます。この時から私どもは「濱長」と名乗ることになりました。末永く贔屓にしていただけるようにとの願いが込められております。
その後、昭和二十三年に南はりまや町に移転。昭和六十一年に現在のこの場所に移って参りました。この間、濱長は政界財界の先生方をはじめ、さまざまなお客様のご贔屓に預かって参りました。厚生大臣や自治大臣を歴任された塩見俊二先生、池田勇人元総理、また、第四十一代横綱千代の山さん。それこそ、数え上げたらきりがないほど、すばらしい皆様との出会い、貴重なエピソードの数々を「濱長」は、この胸に大切にしまってございます。

しかし、時代のあまりに早い変わりようを止めることがはできず、官官接待の廃止などを受けて、平成十三年に、やむなく店を閉めたのでございます。その年は「魚竹本店」「祢保希」と次々にしにせ料亭が門を閉ざした年でもありました。
そして、この度の 「濱長」復活。私どもは再び「濱長」の歴史、その続きを綴って参りたいと存じます。


1.長屋でスタート

窪川町松葉川の農家の娘だった私が、夫の濱口八郎と結婚したのは昭和十年一月。濱口が二十三、私は二十一歳でした。以来、苦労を分け合ってきた主人は平成元年に亡くなり、二人で始めた料亭「濱長」もいまは長男が社長になってくれています。
しかし、どう変わっても忘れることができないのは、店を始めてからの長い道のりと、私の財産とも言うべき多くのお客さまとの出会いです。それをつづってみたいと思います。

自転車で酒の小売り

結婚当時、主人は高知市田渕町(現桜井町)にあった安岡という大きな酒屋さんの店員でした。生活は苦しく、私もその店からお酒を卸してもらい、自転車で高知市内を売って回りました。女性が自転車に乗るのが珍しかった時代です。ハチキンの私も、初めは恥ずかしかった。でも、そんなことは言っておれません。とにかく食べて行くのに必死でした。しかし、一本の利益はしれたもの。それに、そうそう売れるものではありません。「いりません」と言うなり、ぴしゃっとドアを閉められた時の情けなさ。夜は夜でほそぼそと紙袋を張る内職でした。
そんな暮らしが一年以上は続いたでしょうか。どうせ酒を売るなら、沸かして売ればもうけになる、と教えられました。つまり一杯飲み屋です。安岡のご主人も「お前なら酒は回してやる」と言ってくれました。
が、主人は猛反対。さんざん言い争った揚げ句「どうしてもやりたいなら、勝手にやれ」ということになりました。当時、菜園場の九軒長屋の真ん中に住んでいましたが、その狭い家を二つに仕切り、半分を主人が使い、半分で私が飲み屋を始めました。これが「濱長」のまだ名もないスタートだったのです。

「酒の権利」のおかげ

軍隊に招集された夫・濱口八郎(中央)を囲む家族。高知市菜園場の店の前で。左端が筆者(昭和18年8月)

やがて戦争の足音が近づき、一般の家庭ではお酒がだんだん手に入りにくくなりました。そのせいもあったでしょう。店は割合に繁盛し、我を張っていた主人も少しずつ手伝ってくれるようになりました。そして、思わぬ幸運にも恵まれました。それは新京橋近くのレストラン「中央食堂」が持っていた「酒の配給を受ける権利」を、主人が買い取っていてくれたからです。主人は料理店の組合のお世話もしていましたので、中央食堂さんが店を閉める時に譲ってくださったのだと思います。
昭和十八年八月、軍隊に招集された主人は「もう飲み屋はやめろ。あの権利を売れば。一生食べていけるだろう」と言い残して出かけました。
しかし、私は反対でした。「お金は使ったら減るが、体は使っても減らない。働きます」。朝倉の連隊に行き、こう言い張る私に主人も根負けしたようでした。
この権利のおかげで配給制になってもお酒にそう困ることはなく、お客さんにも喜んでいただきました。二階で子供が泣けば、急いでおっぱいを飲ませに駆け上がる毎日でしたが、主人の妹が手伝ってくれたので、どうにか続けることができました。
主人はB型でしたが慎重、私はO型で行動派。その慎重な主人が借金をして買っていてくれた「お酒の権利」が今日の礎 を築いてくれました。


2.帝国軍人の妻

8ヶ月で上等兵に

昭和十八年八月、召集された夫・濱口八郎が朝倉の連隊に入ってすぐ、面会に行った時のことです。おぶっていった娘が、小さな手であめ玉を主人の口に入れました。口をもぐもぐさせながら、主人も本当にうれしそうでした。
すると、どうでしょう。それを見ていた一人の兵隊さんが、つかつかとやってきて、いきなり主人のほっぺたを殴ったのです。親子のほほえましい情景が、めめしいとでも映ったのでしょうか。
娘は驚いて泣き出すし、私はあまりのことに口もきけませんでした。軍隊はなんと恐ろしいところだろう。頭の中がカーッとなるような腹立たしさがこみ上げてきました。
衛生兵だった主人は星二つの一等兵。殴った相手は星三つの上等兵。よっし、主人も上等兵になったら、あんな乱暴をされずに済む。一日も早く上等兵になってほしい。こう思った私は、翌日から薫的さまにお百度参りを始めました。
「早く主人が上等兵になりますように」真夜中の十二時に家を出て、暗い夜道を女一人歩く恐ろしさもなんのその。神社では、ただそれだけを祈り、手を合わせました。すると、わずか八ヶ月で主人は上等兵に昇進したのです。軍隊の昇進がどんな基準で行われていたのか、女性の私には知る由もありません。でも、神様が願いをかなえてくださった。私は素直にそう信じ、感謝しました

夫の身を案じる日々

入隊前の夫・濱口八郎(右)と一緒に料理店組合の仕事をしていた松原さん(昭和18年)

その後の主人は、たいしていじめられることもなく、やがては兵長に昇進、私は一人前の「帝国軍人の妻」になったような気持ちでいました。しかし、戦争は激しくなる一方です。主人の身に何かあったら、という不安は絶えずつきまとっていました。
そんなある日のこと、店を手伝ってくれていた主人の父が、「千代子さん、ちょっと話がある」というのです。
当時、主人の弟も召集され既に戦地へ行っていました。このため、義父はその弟のことは半ばあきらめていたらしく、せめて兄の八郎だけは生きて帰ってきてほしいと、そればかりを願っていたのでした。
「金で命を買えんろうけんど、何とか八郎が戦地へ行かずに済む手だてはないもんじゃろうか。あんたの出来る方法で八郎を守ってほしい」この義父の願いを聞いた時は、正直言ってびっくりしました。曲がりなりにも「帝国軍人の妻」を誇りに思っていた私です。そんな「非国民」のようなことは出来ない、と思いました。
しかし、主人の身を案じるのは私とて同じこと。日がたつにつれ、真剣に考えるようになりました。そこで思いあまって相談に行ったのが、キャバレー「松原」のご主人のところでした。松原さんは主人が召集される前、一緒に料理店組合の役員をしており、気心が十分に分かっていた仲でした。
話を聞いた松原さんは「お父さんや、あんたの気持ちはよう分かる。私自身も濱口さんが無事に帰ってきて、もう一度一緒に仕事をしたいと思うちゅう」と言い、いろいろと動いてくれたようです。
それが、どれほど効果があったのか私には分かりません。一方、私は軍が戦闘機などを造るために呼びかけていた「国防献金」には大いに協力しました。隣組などを通じての割り当てはもちろん、店に献金箱を置き、お客さんが入れてくれたお金に自分のお金を足して、何回も大手前の連隊区司令部に持っていきました。時の東条英機首相から表彰状をもらったほどです。「国防献金」に私がそれほど一生懸命になったのは、どこかに「軍人の妻」としての誇りと、また一種の後ろめたさがあったからかもしれません。

日本刀への思い複雑

招集され町内の人たちの激励を受ける夫・濱口八郎(中央)

私たちの願いが通じたのか戦地へ行かずに済んだ主人は、しばらくして香美郡夜須町の手結に移動し、そこに駐屯していました。アメリカ軍の上陸を迎え撃つ準備をしていたらしいのです。
主人は衛生兵でしたが、私の思いなど関係なく、手結に着くとすぐ「アメリカ軍に切り込む覚悟なので、よく切れる日本刀を手に入れて届けてほしい」と勇ましいことを行ってよこしました。
そこで、私は大金をはたいて、ある剣道の先生から古刀を買い、それを軍刀に仕立てて手結へ届けました。あまり立派な刀だったので、上官や仲間の兵隊さんに「濱口は兵長のくせに、ええ刀を持っちゅうねや」とうらやましがられたそうです。
昭和二十年七月、主人から「三日間だけ休暇が出た」という思いがけぬ連絡がありました。当時、私たち一家は私の故郷の窪川町松葉川に疎開しておりましたが、この知らせに矢もたてもたまらず、私は手結まで迎えに行きました。
そして朝早く、二人で手結を出発、後免まで汽車に乗り、そこからは電車が動いてなかったので西へ向かって歩き始めました。やがて高知市へ。空襲を受けた直後でしたので、いやな臭いと、むせるように暑かったのを覚えています。
朝倉の兵営の前まで来たとき、B29の編隊がごうごうとものすごい爆音をたてて飛んで来ました。主人が慌てて、道端にうつ伏せになるように申しましたが、くたくたになっていた私は、もうどうにでもなれと思い、電車の線路にあお向けに寝転がりました。


高知市大空襲で焼野が原になった高知市。高知駅(前方)から播磨屋橋へ通じる大通りを撮影したもので、右側の建物は高知信用金庫の倉庫(昭和20年7月=高知新聞社提供)

兵営に爆弾を落とすのかと思っていたB29は、勝ち誇ったように低空を飛んだだけで姿を消し、命拾いをした私たちはまた西へ向かって歩き始めました。そして、やっと伊野まで来て、やれうれしや一台のハイヤーを見つけました。それに乗って窪川へ帰り着いた時はもう夜。もう寝ていた子供たちに主人がほおずりをするのを見て、私は足が棒のようになっていた疲れを忘れました。
しかし、主人は家で一晩寝ただけ。髪とツメを切って紙に包んで残し、翌日にはまた手結へ向かいました。途中まで送って行った私は、別れる時「この人とはこれが最後かもしれない」とふと思い、心の中で慌ててそれを打ち消したことでした。そのとき、私のおなかには五ヶ月になる二男がいました。
幸い主人が刀を使って武勇伝を残すことはなく、八月十五日に戦争は終わりました。が、そうなると困ったのは問題の刀の処分です。立派な刀を持っているのをアメリカ軍に見つかったら、どんな目に遭わされるかもしれない、と主人も心配になったらしいのです。そこで一緒に疎開していた主人の妹が手結まで出向き、節をくり抜いたモウソウ竹に刀を入れて帰ってきました。
私は裏の畑にでも埋めておけばよいと思いましたが、義父が「そんなことではいかん。もし見つかったら「大変なことになる」と言って、炭焼き小屋へ持っていきました。
そのとき、炭焼き小屋でどうしたのか知りませんでしたが、やがて復員して帰ってきた主人が「あの刀はどうした」と聞くと、なんと義父は刀を炭焼きの火で焼いたうえ、三つに切断して隠してあったのです。
「それがたまるか。惜しいことをした。あの刀は値打ちもんじゃったに」と、主人も私も残念がりましたが、もう後の祭り。刀騒動は一件落着となりました。


3.「濱長」の誕生

進駐軍接待の内命

昭和二十年八月十五日に終戦になると、主人はすぐ帰ってきました。
外国の軍隊が進駐してくると、女性はひどい目に遭う。それを防ぐには、料飲店を開き、飲んだり食べたりするところをつくってやるのが一番。ついては、その準備をしてほしい。主人がすぐ帰ってきたのは、どうやら、そういう内命を受けていたからのようでした。
復員してくるとすぐ、「椿」さん、「松原」さん、「得月花壇」さんと共同で、高知公園の中にあった「花壇」さんの店を使って、進駐軍用の料飲店を開く準備に取りかかりました。水商売の経験をもつ女性の応募も随分あり、畳の部屋で「イッチ、ニー、サン」とダンスのレッスンもやりました。
ところが、進駐してきた米軍はこの「花壇」に目をつけ、将校用の宿舎に接収してしまいました。このため、やむを得ず店は場所を変え、越前町で開業するありさまでした。
この店は寄り合いの所帯のせいもあって、結局はうまくいかず、間もなく解散。私たち夫婦は、現在の丸の内高校南側の武藤さんのお屋敷を借りて店を始めることになりました。昭和二十一年半ばのことです。
そのとき考えた店の名前は私たち夫婦の名前からとった「濱八」「濱千代」、それと「濱長」。濱長には、末永くひいきにしていただけるように、との願いが込められていました。
この三つを紙に書き神棚に供え、主人のほか従業員みんなが見ている前で私がかしわ手を打ち、目をつぶって一つを選びました。それが「濱長」だったのです。「まっこと、この名前が一番ええ」と、みんな手をたたいて新しい店の誕生を喜んでくれました。

新前おかみのストレス

高知市丸ノ内で開業した店の前で記念写真。前列中央で赤ちゃんを抱いているのが筆者(昭和21年)

昭和二十一年、高知市丸ノ内で武藤さんの屋敷を借りて始めた「濱長」は、私の「おかみさん」稼業の初舞台でした。何も知らない私は、おゆきさんという年配の仲居頭に一つひとつ教えてもらう毎日。おしょうゆを「むらさき」ということも始めて知りました。後に長唄のお師匠さんになったおゆきさんは非常にしっかりした人で、私の「おかみ」としての下地をつくってくれた恩人です。
当時のお客さんは料理屋で純粋に遊ぶ人が多く、仲居さんや芸者さんもお客さんを喜ばすためいろんなことをしました。が、おゆきさんは私に「おかみさんは仲居がするようなことをする必要はありません。お座敷には、大切なお客さんがお見えになった時。ちょっとだけごあいさつに出てもらえれば十分です」と言ってくれました。
その反面、小さなことにまで気をつけていて「ごあいさつするときは必ず三つ指ですよ」と、おかみとしてのイロハを教えてくれました。
帳場は板場の隣にあったわずか二畳の部屋。そのうちの一畳で番頭さんと私が帳面をつけ、もう一畳には赤ん坊だった二男を寝かせていました。
店はおかげさまで繁盛しました。県庁に近いせいもあったでしょうが、当時の吉富滋知事や、吉富さんが亡くなった後の西村直巳知事もよく利用してくださいました。吉富さんは酔うと帳場にやってきて二男を抱き上げ、ほおぺったをなめ回すのがくせでした。仲居さんや芸者さんも手の空いている時には二男を抱き、なかには自分のおっぱいをふくませたりする人もいました。
このように、お客さんにも恵まれ、店の人もみなよくやってくれましたが、その人たちに見えないところで、新前おかみの私は、随分苦しい思いも致しました。
当時、私の店で働いていた女性はいろんな経歴の人の集まりでした。以前から芸者や仲居さんをしていた人、キャバレーにいた人、お手伝いさんをしていた人。つまり苦労を重ね、人生経験豊富な人ばかりだったのに比べ、私はと言えば年齢も一番若い素人おかみ。
いやがらせをされることはありませんでしたが年は若くてもその人たちをたばねていかなければならぬ立場の私には、どうしても負けてなるものかという背伸びしたいところがありました。何も知らないのに、何でも心得ているように見せねばならない張り詰めた気持ちが、片時も抜けませんでした。
しかし、人間はそうそう緊張ばかりではいられません。私もいまで言うストレスがたまり、どうにも耐えられなくなる時がありました。夜遅く二男を背負ってそっと店を出た私は薫的さまの方へとぼとぼ歩きました。江ノ口川に架かる橋の真ん中で欄干に取りすがり、ワッと大声で泣いたことが何度あったことでしょう。それが私のストレス発散法だったのです。