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4.丸ノ内のころ

外国兵が「女を出せ」

高知市丸ノ内当時、店にいた芸者さん。 みんな島田に結っていた。

丸ノ内の店では新前おかみとしての内面的な悩み以外にも、困ったこと、悔しい思いをしたことがたくさんありました。
開店して間もなくのことです。ある日、スカートをはいた外国兵が二人やってきました。対応に出た主人がなかなか戻ってこないので、様子を見に玄関へ出て驚きました。なんと、毛むくじゃらの外国兵がぺちゃくちゃ言いながら、主人にピストルを向けているではありませんか。
後で聞くと「女を出せ」と言っていたらしいのです。主人は首と手を左右に振って「ノー、ノー」の一点張り。元陸軍兵長殿も必死の形相でした。
こういうことになると、女はダメですね。ピストルを見た途端、ハチキンの私も腰を抜かしてしまいました。恐ろしくて、本当に立てないのです。仕方なく廊下をはって奥へ行き、板場さんに警察へ電話を頼むのがやっとでした。
間もなく、警察から連絡を受けたMPの白いヘルメットが見えた途端、今度はスカート兵が大慌て。庭を飛び越えて逃げてしまいました。「ノー、ノー」で押し通した主人は警察に褒めていただき、しばらくは自慢話のタネにしていました。

ヤミで魚買った容疑

ところが、その主人が翌二十二年、今度は警察に逮捕されるという悔しい事件がありました。魚一貫(三・七五キロ)をヤミで買ったという容疑でした。
当時はどこの料理屋もヤミで仕入れないとやっていけない時代。それなのに、うちの主人だけがどうして連れていかれたのか、訳が分かりませんでした。
主人は警察へ行くとき「警察も誰かをやらねば行かんのだから、料理屋組合の代表で引っ張られたようなもんじゃ。あんまりがたがた騒ぐな」と申しました。心配して駆けつけてくれた人も「主食の違反じゃないから、すぐ帰ってくるだろう」と言ってくれていました。
ところが、その日はとうとう帰ってきません。心配になった私は翌日、警察署長さんに掛け合いにまいりました。それは、署長さんご自身も前日、うちの店での宴会で問題の刺し身を食べておられたからでした。
ところが、署長さんはけんもほろろ。私の言い分を聞いてくださるどころか、会ってもくださいませんでした。「濱口長太郎なら知っているが、濱口八郎という人は知らない」
受付の人に、署長さんがこう言っていると聞かされ、ぼう然となりました。おまけに主人が警察にとめられている間、面会も許されぬ厳しさ。面会できたのは起訴されて未決房へ移されてからでした。
結局、主人は罰金十万円になりました。当時としては大変な金額です。でも私は、お金のことより、なぜ主人だけが目をつけられたのか、それが悔しくてなりませんでした。


5.義父の教え

自分のやれる範囲で

家族、全従業員が集まって新年宴会。 正面真ん中が夫・濱口八郎(南はりまや町の旧「濱長」)

昭和二十三年、店は高知市丸ノ内から南はりまや町に移転しました。実はその時、最初は旧八軒町(現・本町二丁目)の、いま竹下病院のあるところに新しい店を構える予定で、二百六十坪の土地を買い、建前も済ませ、お餅までまいていました。ところが、お酒の仕入れの関係で親しくなっていた山崎猛さんが、南はりまや町の川崎源右衛門さんの土地を教えてくださったのです。
私が易占いの人にみてもらうと「南東の方角がよい」とのこと。丸ノ内の店からは、この土地がぴたり南東に当たりましたので、思い切りよく予定を変更、お借りすることに致しました。
店の建物は、私の故郷である窪川町の民家を三十五万で買い、それを運んで建て直しました。料理店ができるように少し建て増しも致しましたが、それでも全部合わせて百万円くらいでできたと思います。
こうして、私たちの店は少しずつ大きくなりましたが、決して無理な拡張は致しませんでした。それは、亡くなった主人の父の遺言でもあったからです。


高知に駐留していた米軍士官らを招いての懇親会(旧濱長)

主人の父の家は、もともと中土佐町久礼の網元だったらしいのですが、祖父が知人の借金の保証人になったのが原因で財産をなくし、私たちが結婚したとき、義父は伊野町で板場をしていました。
子供のころのいやなことを思い出したくなかったのでしょう、私には昔の話はしませんでしたが、ただ一つ「他人に判を押してもろうたらいかん。こっちが押してもいかん。自分の力でできる範囲でやれ」と口ぐせのように申しておりました。自分の父が他人の借用書に判を押して失敗したのがよほどこたえていたのだと思います。
そのころ、私どもの店は四国銀行さんとの取引だけで、現在頭取になっていらっしゃる浜田耕一さんや本店営業部の方には随分お世話になりました。融資を受けるときは主人の名前で申し込み、保証人はいつも妻の私。よそさまに保証人になっていただくことは決してありませんでした。
息子の代になった現在は、高知銀行さんにお世話になっておりますが、よそさまの印鑑をお借りしないという考え方は変わっていないはずです。


6.仮谷さんの涙

離れで県議会の作戦

昭和二十三年、南はりまや町に移転したころには、県議会や国会の先生方もよくお見えになり、私も政治の世界を裏側から垣間見る機会が多くなりました。
知事が桃井直美さんから川村和嘉治さんに代わったのが昭和二十六年十二月。それからの四年間、野党に回った当時の自由党県議団は川村知事をやっつけるのに必死でした。県議会が近づくと、仮谷忠男、田村良平、井上六助さんらが連日お見えになり、あれこれ作戦を練っていらっしゃいました。
お使いになるのは「桜の間」という離れの四畳半。ご用はほとんど私がいたしましたが、こみいった話になると「ちょっと外してくれ」とお人払いになり、それはそれは真剣でした。
店の仲居さんを連れて質問戦の傍聴にもまいりました。後に衆議院議員、建設大臣にもなった仮谷先生の質問は、余分なことをあまり言わず、まっすぐ心臓部をつくような鋭さがございました。
受けてたつ川村知事さんも負けてはいません。頭の上を風が通り過ぎるのを待つのではなく、言われたら言い返す激しさ。お二人とも小柄でしたが、それは迫力がございました。

塩見さんに気を遣う

建設大臣室での仮谷忠男さん(中央)と筆者(右から2人目)

仮谷先生が衆議院議員に初当選なさったのは昭和三十五年十一月の選挙です。亡くなった林譲治先生の後を継いだ形でしたが、ご本人は衆議院議院の塩見俊二先生に随分気を遣っていらっしゃいました。塩見先生に衆院へ回ってもらい、ご自分は参議院へとのお気持ちも当初はおありのようでした。
ある日、そのことを塩見先生にひいきになっていた私の口から伝えてほしい、とのお話がございました。そんな大事なことを私のような者が、と思いましたが、表だった話でなく、というのが仮谷先生のお気持ちと考え、塩見先生がお見えになった時その通り申し上げました。
しかし、それをお聞きになった塩見先生のお顔の恐ろしかったこと。
「おかあ、お前は料理屋のおかみじゃろうが。酒を売りよったらええ」
あとは取りつくしまがありません。困った私が主人に相談すると、「それは塩見先生の言う通りじゃ。わしらあが口出しすべきことじゃない」というのが主人の意見でした。
そこで、夫婦で仮谷先生にお目にかかり「選挙のことは私どもを通すより塩見先生と直接、納得のいくまでお話し合いになったらいかがでしょうか」と申し上げました。
その後しばらくして、仮谷先生から私ども夫婦に改めてお話がございました。「お二人のご意見どおり、塩見先生と話し合いをしようと思ったがなかなか会える日がなかった。そのうち私の後援会がどんどん動き出し、もう後へは引けなくなった。わたしは衆議院選に出ることを決めました」
こうおっしゃると、両手をついて、ぼろぼろと涙を流された仮谷先生。誠実そのものの姿に主人も私も感極まって涙をおさえることができませんでした。
国会議員になってからの仮谷先生はとんとん拍子。昭和四十九年十二月、三木内閣の建設大臣になりました。そのときは大臣室までお喜びにおうかがいしましたが、小柄な先生があのときほど大きく見えたことはございません。


7.池田さんの電話

「塩見を男に…」

池田勇人さん(前列真ん中)、塩見俊二さん(同右端)を囲んで。後列右から3人目が筆者(昭和31年・濱長)

参議院議員で厚生大臣、自治大臣にもなった塩見俊二先生は、まだ大蔵省に在職のころからお店にお見えになり、仮谷先生以上の深いおつき合いをさせていただきました。単なるお客様としてではなく、お人柄にひかれた私ども夫婦を、先生も奥様もまた身内同様に扱ってくださいました。
塩見先生がはじめて選挙に立候補されたのは、昭和三十一年七月の参議院全国区です。なんと言っても出身地の高知県が最重点地区で、地盤固めにはだいぶ前から努力されていました。そんなある日、大蔵省の先輩である池田勇人先生が応援に来高され、一緒にお店へお越しになりました。
池田先生が総理になる四年前のことです。さすがに威厳がありましたねえ。お酒も強く、初めのうちは私ども夫婦を話し相手にお二人ともコップでお飲みになっていました。ところが、しばらくすると、池田先生が突然、コップを置かれて「ちょっとそこへ座ってくれませんか」とおっしゃるではありませんか。
何事かとかしこまると、座布団を外した池田先生が正座して両手をつき、こうおっしゃいました。
「塩見はいいやつです。お二人の力でどうぞ男にしてやってください」
なにしろ天下の池田さんです。あまりのことに、主人と私はただ顔を見合すだけ。緊張して一言もお返事することができませんでした。その夜は親しい方を招き、両先生を囲む小宴となりましたが、お二人の友情をつくづくうらやましく思ったことでした。

ダブルの背広を新調

空路帰京する池田勇人さん(中央)を囲んで。左端が筆者、右端は夫・八郎(高知空港)

さあ、それからは大変です。主人も私も塩見先生の応援に必死になりました。主人はダブルの背広を新調して秘書代わり。先生が県内を回るときは必ずついてまいりました。
それについて面白い話があります。先生は車では助手席がお好きでしたので、主人が後ろに座って出かけることがよくありました。それはいいのですが、向こうについて後部座席から降りるダブルの主人を見て、現地の方が先生とよく間違えたそうです。そんな日は、帰ってくるなり先生が「おかあちゃん、きょうはだんながえらいもてたぜよ」と冗談をおっしゃいました。
さて、投票は七月八日。全国区の開票は九日になってからでした。私たちは店の一室で、気心のしれた方たちと情報を交換しながら一喜一憂していました。
高知県内での塩見票は文句なくトップでしたが、目標にしていた十万票には届かず七万三千五百十票。このため悲観的な見方をする人もいて、私は気が気ではありませんでした。
そんな重苦しい空気が漂い始めた真夜中の十二時ごろ、東京から帳場に電話がありました。なんと池田先生からです。慌てて私が出ますと、あのしゃがれた声で「おかみさんかい。塩見当確」たったそれだけで電話は切れました。私は塩見先生の当選確実はもちろんですが、それを少しでも早くと、ご自分で電話してくださった池田先生のお気持ちがうれしくて、涙がほおを伝うのをどうすることもできませんでした。
塩見先生の最終得票は二十九万四百三票。当選した五十二人のうち三十位でした。


8.塩見VS坂本

「さんご会」を結成

塩見俊二さんらを囲んで開かれた「さんご会」のパーティー

塩見俊二先生にとっては二回目、昭和三十七年の参議院選挙は大変でした。全国区だった先生が高知県地方区へ回り、地方区選出の社会党、坂本昭先生と現職同士の対決だったからです。
後に高知市長になった坂本先生はもともとがお医者さん。聴診器を手に県内をこまめに回り人気を集めていました。一方、塩見先生は同じ参議院でも全国区だったこともあり、どうしてもなじみが薄くマスコミの下馬評でも坂本優勢の声が圧倒的でした。
そこで、気が気でなかった私は、先生の秘書の森下茂兎美さんのご依頼を受け、婦人票を集めるため女性だけの後援会結成のお手伝いをすることになりました。


「さんご会」の奨学資金増成パーティー

それまで、選挙での女性の役割は事務所などでの裏方が関の山。いまでこそ大きな選挙では婦人部隊が活躍しますが、少なくとも県内では、私たちが初めてでした。
産婦人科のお医者さんだった今は亡き寺尾澄恵さんを会長に「さんご会」という組織をつくり、土電会館のホールで結成大会をしました。「さんご会」の名称には、寺尾さんが産婦人科の先生だったので、さんごの肥立ちがよくという気持ちと、サンゴのように土佐を代表する政治家になってほしいという、塩見先生に対する願いが込められていました。会員にはサンゴのバッジをつけてもらうことにしました。製作費は一個二百五十円。寄付集めに大阪など県外にもまいりました。
結成大会は大成功。来賓だった当時の溝渕知事さん、高知商工会議所の西山会頭さんらも熱気でむんむんする会場を見て「おかあちゃん、えらいもんじゃのう」と驚いていらっしゃいました。

県外からの応援部隊

もう一つ、この選挙で大きな役割を果たしたのは県外からの応援でした。お酒屋さん、薬屋さん、お菓子屋さん、それこそ、ありとあらゆる業界の方々が塩見先生の応援にまいりました。この方たちは決して表面には出ません。私どもの旅館を根城に、取引先などを通じ票固めをしていたようでした。
でも、このことは絶対に秘密で、主人に固く口止めされていました。県外から応援がたくさん来ていることが分かると、相手方にそれを封じ込める手を打たれますし、味方の陣営内にも感情的な反発を招く心配があったからです。
土佐人はやや排他的なところがあります。だから「それほど県外の人にやってもらうのだったら、わしらあ手を引く」という声が出はしないか、と気を遣ったのです。


参議院議員選挙中のひとときをくつろぐ塩見俊二夫妻(「濱長」別館=高知新聞社提供)

このような努力が実り、選挙の結果は、
塩見俊二 二一八九三三 
坂本 昭 一六〇二四八 
林田芳徳 一七一二九 

まさに予想を覆す大勝利でしたが、この選挙が終わると、夫の濱口八郎は個人的なお付き合いは別にして、先生の選挙からは一切手を引きました。
その理由を当時の福田義郎高知新聞社長に聞かれ、主人が次のように答えていたのを覚えています。
「これまでの塩見選挙は手押し車みたいなもんじゃったが、これで立派な自動車になった。もう私らあが出る幕ではありません」
それほど、この選挙は塩見先生にとって重要な選挙だったのです。