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9.塩見さんと酒

「お水」と「お酒」

塩見俊二先生は本当にお酒が好きで、お強うございました。私どもの店でも、夜が明けるまでお飲みになることはしょっちゅう。
よく「湯のみでやれば酒でも茶になる」とおっしゃっていましたが、その言葉どおり、いくら飲んでもお酔いになることはなく、ご自分の口から「もう、これでやめよう」とおっしゃることも全くありませんでした。
私の主人はお酒をいただきませんでしたので、お相手はいつも私。お酒をつぎながら色んな話の聞き役で、それが私にとって人生についてのよい勉強にもなりました。
お酒のあとは、あんまさんをとるのが習慣でしたが、あまり先生のお酒が長いので、隣の部屋で待ちくたびれたあんまさんが居眠りをしていたこともありました。
選挙中も、宿舎にしていた私どもの別館をお出かけになるときは、玄関で「お水」と催促されるのがお決まりでした。
たいがいは、私が心得ていてコップに冷や酒を入れてお出ししていたのですが、たまたま代わりにお手伝いさんがお見送りしたことがございました。
ところが、そのお手伝いさんが、先生に言われたとおり正直に水を入れて出したのです。コップに口をつけた先生は途端に変な顔をして「ありゃ、こら水じゃいか」と、おっしゃったそうです。
後でこの話を聞いた私は大笑い。先生のおっしゃる「お水」は「お酒」のことだから、と教えたことでございました。
そんな調子ですから、街頭演説などのために回られたときも、途中に酒屋さんがあると、隠れてコップ酒をきゅっと召し上がっていたことがときにはあったようです。もちろん、それで演説がおかしくなるような先生ではございません。のどの調子を調える、それこそ「お水」の役割を果たしていたのでしょう。

黙って酢を飲む

高知市の商店街で立候補演説する塩見俊二さん(高知新聞社提供)

お酒とお水を間違えた程度ならよかったのですが、最初の選挙に出るため県内の地固めをしていた昭和三十一年、高岡郡日高村で大変な間違いがございました。能津の片岡万造さんという支持者のお宅に立ち寄られたときのことです。玄関でその家のお手伝いさんに、先生が手まねでコップ酒を所望されたようです。
ところが、そのお手伝いさんがお酒と酢を間違えたらしいのです。それを先生は何もおっしゃらずお飲みになったものですから、秘書役として付いていた私の主人はもちろん、だれも気付きません。
翌日、片岡さんが大慌てでおわびにきて、初めて分かったのです。そのことについて先生ご自身は何もおっしゃいませんでしたが、おそらく先方のお手伝いさんに恥をかかせてはいけない、とのお気持ちで我慢して酢をお飲みになったのでしょう。
「えらい、あの男はまっことえらい」
感心した主人は、ますます傾倒するようになりました。
「それにしても、酢をコップに一杯ぎゅうっと飲んだときはどんなじゃったろうのう」主人は生前、塩見先生の話になると口癖のようにこう申しておりました。


10.秘書の森下さん

野中県議の選挙が縁

塩見さんの秘書・森下茂兎美さん(右)と筆者 (旧「濱長」玄関前)

塩見俊二先生との思い出を書くのに、最初の秘書だった高岡郡日高村出身の森下茂兎美さんのことに触れぬわけにはまいりません。それは、森下さんを先生に推薦したのが私たち夫婦だったと言うことだけでなく、先生の秘書として、誠心誠意尽くしていた姿に心打たれるものがあったからです。
私が森下さんを知ったのは昭和三十年四月の県議会議員選挙の時です。高岡郡選挙区で立候補していた野中慶太郎さんの会社が高知市南はりまや町の私の店の前にあり、そこに森下さんも出入りしていました。
当時の高岡郡選挙区は須崎市も含まれていて定数は九。これに二倍以上の十九人が立候補、なかなかの激戦でした。野中さんは三期目でしたが、投票日が迫り票読みしたところ、どうしても少し足りない。そこで「一票でも二票でも」と、私たち夫婦に頼みにきました。主人は中土佐町、私は窪川町の出身で、郷里に身寄りがいたからです。
「よっし、行ちゃれや」と主人に言われ、私は親類や友達のところを回り、野中さんへの投票をお願いしました。選挙の結果、野中さんは四千六百四十八票。当選した九人の最下位で、次点の人とはわずか七十二票差の滑り込みでした。
その時、森下さんがきて「濱長さん、野中が当選できたのはあなたがたのおかげです」と男泣きにないてお礼を言ってくれたのです。その誠意のある姿が強く印象に残りました。
その年、塩見先生は大阪国税局長を退職、翌年七月の選挙で参議院議員になりました。ところが、秘書にと考えていた大蔵省時代の部下の方が都合できなくなり、私たちに「だれか、ええ人はおらんろうか」と相談がありました。その時、主人も私も即座に森下さんを推薦したのです。

酒を断って誠心誠意

秘書になった森下さんはお酒をぴったりやめたそうです。前回書きました通り、先生が私を相手に夜遅くまでお飲みになっている時も、一滴も飲まず隣の部屋で待っていました。
だから、私は森下さんがもともとお酒を飲めないのだと思っていました。秘書をやめた後で私のお店へきた時、本当はお酒を飲むのだと知ってびっくりしたほどです。
先生は無類のお酒好き。お酒でぐっすり寝込み、列車の寝台から転げ落ちたこともあるそうです。もし何かあって名前にキズが付くようではいけない。それには秘書が一緒になって飲んではいけない。こう決心してお酒を断ったのだそうです。
森下さんは先生の選挙でも随分働きました。昭和三十七年、高知県地方区で坂本昭さんと激しい争いになった時は、私の主人と一緒に先生を案内して県内をくまなく回りました。めったに人を見かけない山奥まで連れていかれた先生が「高知では猿やタヌキにいつ選挙権ができたがぜよ」と冗談をおっしゃったそうです。車を降りて山道を歩くので、森下さんの足にはマメができていました。
約十年務めた森下さんは昭和四十一年、先生が佐藤内閣の自治大臣になった時には秘書をやめていました。下積みの苦労をした森下さんに、いつか晴れがましい日がくるのを願っていた私は、それがただひとつ残念でした。


11.溝渕さんへのウソ

知事選立候補のうわさ

塩見俊二先生が大阪国税局長を最後に大蔵省を退職したのは昭和三十年四月。その直後のことです。四国銀行の頭取になるか、高知県知事選に出るのではないか、といううわさがたったことがありました。
ご本人はあくまでも参議院選が目標で、そんな気持ちはさらさらなかったようなのですが、当時副知事だった溝渕増巳さんはかなり気にしていたようでした。それはそうでしょう、溝渕さんは川村和嘉治知事に対抗し、次の知事選に打って出る決意を既に固めていたからです。
もし、塩見先生が知事選へ出るようになれば話がややこしくなります。そこで、ある日の夕方、おそらく真意を確かめる目的だったのでしょう、鏡川べりの私どもの別館に塩見先生を訪ねてこられました。
その時、先生は南はりまや町の本店の一室で、高知新聞社の役員だった小松鶴喜さんと碁を打っていらっしゃいました。先生と小松さんは前々からの碁仲間でした。
私が本店に行って、溝渕さんがお見えになっていることをお知らせしたところ、先生はろくに話を聞こうともなさらず「ほうっちょけ、博多へでもいちゅうと言うちょいてくれ」とおっしゃって相変わらずパチリパチリ。知事選に出るつもりが全然なかった先生は、溝渕さんの心配がばかばかしかったのかもしれません。
しかし、困ったのは私です。別館に戻り先生に言われたとおり「博多の方にお出かけになっています」と申し上げたところ、溝渕さんは「では、帰るまで待たしてもらう」とおっしゃるのです。

「わやにすな」と溝渕さん

溝渕増巳知事を囲んで。右端が筆者(県庁知事室)

さあ、それから何時間たったでしょうか。溝渕さんは夜になってもお酒を飲みながら帰ろうとしません。「まだ帰ってないか確かめてほしい」とおっしゃるのです。そこで、また店に行ってそう伝えますと碁を続けていた先生が「しょうがない。ここへ呼んでくれ」と、とんでもないことを言い出されました。
碁を打っているところへ溝渕さんをご案内すれば、私がウソをついていたことがわかってしまいます。「それでは私が困ります。お洋服に着替えて別館に行ってくださいませんか」とお願いしましたが、先生はいっさいお構いなしでした。
やむを得ず、私が溝渕さんに「実は…」と碁を打っていたことを白状しますと、あの温厚な溝渕さんがさすがに怒りました。
「わやにすな。わしは地元の人間ぞ」
それから、本店に行った溝渕さんと先生の間で、どんな話があったのかは存じません。先年亡くなった小松さんにうかがっておけばよかったと、いまになって思うのです。
この話を私がどうしても忘れることができないのは、腹を立てた溝渕さんを私が見たのは後にも先にもこの時だけだったからです。私の主人の親類が伊野町の大内にいて、溝渕さんのお生まれになったところと近かったこともあり、私は溝渕さんに前々から親しみを感じていました。
溝渕さんもまあ、私の顔を見ると必ず「だんなは元気かよ」と声をかけてくださいました。そんな気配りを忘れぬ溝渕さんに、やむを得なかったとはいえウソをついた。申し訳ない気持ちが、いまだに私から消えません。


12.横手さんの忠告

両方へ陣中見舞いに

五期二十年もの間、高知県政のトップだった溝渕増巳さんが、初めて知事の座に着いたのは昭和三十年十二月。現職の川村和嘉治知事に副知事の辞表を提出、お二人の争いになったこの選挙は、それはそれは激しい戦いでした。
四年前、桃井直美知事が川村さんに敗れ野党になっていた当時の自由党県議団は、いうまでもなく県政奪回に懸命。県議会の定例会が近づくと、私どもの店に仮谷忠男、田村良平先生ら気鋭の方がよく集まり、あれこれ作戦を練っていらっしゃいました。もちろん、私はそういうお話の内容を聞くことはできませんでしたが、お二人らにも言われ、自然と溝渕さんに肩入れするようになっていました。
と申しましても、私どもの商売はいろいろな方のごひいきになりますので、あまり表だったことはできません。先日書きましたように、塩見俊二先生の選挙にだけは夫婦ともども走り回りましたが、これは先生と私たちが身内同様の間柄だったためで、全くの例外。溝渕さんの場合も、親しい人や店の仲居さんたちに声をかける程度の事でございました。
ところが、それがどこでどう伝わったのか、溝渕さんが負ける場合のことも考え、あまり深入りしないように忠告してくださった方がございました。二十七年から約二年間、県の庶務課長、財務課長を務めた横手正さんです。
中央から派遣され、川村知事、溝渕副知事に仕えた横手さんが、どちらか一人というわけにはいかなかったのは当然。選挙期間中のある日、私どもの店にお見えになったときも、実は両方への陣中見舞いのため来高されていたようでした。

二人だけの秘密

初登庁して記者会見する溝渕増巳知事 (昭和30年12月=高知新聞社提供)

ところが、その横手さんがお酒を飲みながら私に「おかみさん、選挙はどうしても現職のほうが強い。お店のこともあるので、溝渕さんの応援はほどほどにしておいたら…」とおっしゃったのです。
このときの横手さんは、決してお酒の上の冗談ではありませんでした。翌朝早く高知駅でお見送りしたときも、列車の窓から念を押すように「絶対に現職が強いから」とおっしゃいました。
しかし、もう乗りかかった舟です。「もし負けたら東京へ出て行きますから、その時はよろしく」と冗談を言い、手を振ってお別れしましたが、店へ帰る途中「溝渕さんは大丈夫だろうか」という不安が、心の中にふとよぎりました。
その私の不安も取り越し苦労に終わり、溝渕さんは約五万票もの差をつけて川村さんに勝ち、知事の座につきました。当選が決まった時、東京の横手さんから電報が届きました。
「オメデトウ、カリ、タムニモヨロシク」
「カリ、タム」とは仮谷、田村両先生のことでした。横手さんは、私が溝渕さんの応援をしていたのはお二人に言われたからだということを、ちゃんとご存知だったのです。
それから十数年たち、すっかり白髪になった横手さんが来高され、店にきてくださった時のことです。あの選挙を思い出したのか「おかみさん、よかったですね」とおっしゃいました。
おそらく、何がよかったのか、ほかの方は皆目分からなかったでしょう。それは横手さんと私だけの秘密でした。


【箸拳】はしけん

箸拳は、文字通り、箸を使って遊ぶもので、
郷土料理の皿鉢の取り皿に添えられた
短めの「赤箸」が道具になります。
三本勝負で、負けた人が罰杯を飲みます。
「濱長」は高知県箸拳普及協会の
メンバーとして、お客様に箸拳をお教えしています。


キップのいいかけ声が宴席を盛り上げます


先行の「いらっしゃい!」
というかけ声から勝負が始まります。
その後は、お互いが自分のペースに
相手をいざなうために、
いろんな台詞を発します。


「さあ、どういうもんじゃろうねえ?」
「もう喉が渇いたちや」「いけるかね?」などさまざまです。
その間に、相手の表情を読み取りますが、その様は、
まわりで見ている者をも楽しませます。
3回勝負の2回目で1:1になった時は「大勝負」。
そこで見せ場を作った試合は、勝っても負けても拍手喝采。
また、引き分け続きの勝負で緊張が続いた後の勝ち負けは最高に場を盛り上げます。
畳一枚分での駆け引きなのに、大相撲を見ていたような気持ちの高揚を覚えるのが魅力です。

10月1日は箸拳の日!?

…ではなく「日本酒の日」です。
(濱長内部では「箸拳の日」と思っている者も居るとか居ないとか)

10月(酉の月)は新米の実る月。
収穫した新米で酒蔵が酒造りを始めます。
10月1日が酒造元日とされ、「日本酒の日」となったようです。

その日本酒の日、10月1日に、高知酒造組合連合会の主催で
「箸拳大会」が行われます。
全国から「拳士」(=「酒好き」!?)が一同に集い、
熱戦を繰り広げます。
団体戦は3人一組。個人戦もございます。
濱長も、3〜4グループを送り込んで奮闘していますが、
さすがに強者揃いで、なかなか上位にコマを進めることができません!
でも、中にはこの大盛り上がりを楽しみたいと、
最初から「飲む」目的のグループもいらっしゃったりするのも土佐流です。