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13.甲藤蔓子さん

商工会議所に婦人会

高知商工会議所婦人会メンバーが、大磯の吉田茂邸を訪問し、門前で記念撮影。左から2人目が筆者(昭和33年)

戦後二回目、昭和二十二年四月の衆議院選挙に高知全県区で立候補、惜しくも次点になった原上蔓子さんは、高知市京町の万年筆屋さんでした。演説の途中、はらはらと涙を流す名調子。文部政務次官を務めた長野長広さんを、わずか二千票差まで追い詰めました。
と申しましても、そのころ私と蔓子さんは面識があったわけではありません。お付き合いするようになったのは、蔓子さんがやはり衆議院選挙に何回か出たご主人の原上権次郎さんと離婚、旧姓の甲藤蔓子さんに戻ってからでした。
お付き合いが始まって間もなくの昭和三十一年、蔓子さんが訪ねて来られました。用件は「高知商工会議所に婦人会をつくりたいので手伝ってほしい」とのことでした。一緒に話を聞いた夫の濱口八郎は、商工会議所に関係していましたので大賛成。早速、手分けして会員集めにかかり、よく三十二年二月には蔓子さんを会長に、東京商工会議所に次ぐ全国二番目の婦人会を誕生させました。
蔓子さんといろいろなことをして私が驚いたのは、彼女の並々ならぬ行動力と聞きしに勝る弁舌でした。三十三年には先輩格の東京会議所婦人会を訪問しましたが、その席でのあいさつの立派だったこと。大会社の社長夫人がずらりと並んでいた相手方も、感心してただ聞きいるだけ。蔓子さんの秘書役として付いていっていた私も誇らしく、肩身の広い思いをしたことでした。
翌日は大磯の吉田茂元首相邸を訪問、記念撮影もしました。その時も、蔓子さんが吉田さんと随分親しそうに話をしていたのに、ただただびっくりしました。

「一豊の妻」の銅像も

山内一豊の妻の銅像(高知公園)

蔓子さんの音頭取りで生まれた高知商工会議所婦人会は、社会奉仕の資金集めも随分いたしました。高知市一宮の土佐神社のお祭りでジュース、かき氷、お菓子などを売ったこともありますし、お正月には名士交歓会もしました。年末に会員券を売っておくのです。「あんたのお店にはえらい人がどっさりくるので、券を売るのはわけないろう」と蔓子さんに言われ、お役所や会社の「長」と付く方のところへ随分お願いに回りました。
高知公園にある「山内一豊の妻」の銅像も、商工会議所婦人会が資金集めをして昭和四十年に建てたものです。
リーダーとしての蔓子さんは強引で、有無を言わさぬところがありました。ある日、私と寄付集めに回っていた城西館の藤本楠子さんが、大柄な体でビルの階段をふうふういって上がりながら、ふと足を止め「濱長さん、どうしてあたしがこんなことをせんといかんろうかねえ」とつぶやいたことがあります。
「まっこと、あたしにも分からん」。思わずこう答えて二人で大笑いしましたが、多少ぶつぶつ言いながらも、みんな蔓子さんに付いていったのは、やはり彼女の統率力だったと思います。
こんなに親密だった蔓子さんと私の関係はその後、塩見俊二先生の選挙の際、女性の後援組織「さんご会」ができたことでひびが入り、蔓子さんの怒りを買った私は、商工会議所婦人会を除名同然になりました。
しかし、蔓子さんはそれを気にしていたらしく、病気で亡くなる前、お見舞いの人に「濱長さんには申し訳ないことをした」と言っていたそうです。それを聞いた時、私はなんとも言えぬ懐かしさでいっぱいでした。


14.千代の山関

巡業のたび大騒ぎ

千代の山関の断髪式ではさみを入れる夫・濱口八郎(昭和34年)

大相撲の第四十一代横綱の千代の山関は、主人の濱口八郎がひいきにしていた関係で、私も親しくお付き合いしました。子供達も横綱におふろに入れてもらったり、一緒に寝たり、随分可愛がっていただきました。
最初に会ったのは、まだ高知市丸ノ内で店をやっていたころでした。高知市出身のお相撲さんが廃業のあいさつにきてくれたとき、若い力士を二人連れてきて主人に「よろしくお願いします」と頼んだのです。その一人が幕内へ上がったばかりの千代の山関でした。
主人は「これは見込みがある」と思ったのでしょう。以来、すっかり千代の山関のひいきになりました。高知へ巡業にきたときはいつも一門のお相撲さんを二、三十人も広間に上げ、飲ますやら食べさすやら大騒ぎ。場所でのちゃんこの材料も差し入れしました。
私は最初のうち、相撲にはとんと興味がなかったので、正直言って「まあ、もったいないことをする」くらいに思っていました。
しかし、何回か接するうち、千代の山関がすごく礼儀正しく、義理堅いのに驚き、感心するようになりました。相撲はめきめき強くなり、大関、横綱と、とんとん拍子に出世しましたが、上になればなるほど物腰は丁寧になり、私たち夫婦をたててくれました、
例えば、高知へ巡業にきて、よその料亭に招かれても、なかなか行こうとはしませんでした。私が「人気稼業だから、そんなことではだめじゃないの」と、行くように勧めると「お母さんが一緒なら」と言うのです。そして車にも私を先に乗せ、お座敷でも私を上座に、といった具合でした。

礼儀正しく義理堅く

先々代九重親方(中央=横綱千代の山)を囲んでだんらんのひととき。右手前が杉村光恵さん(九重親方夫人)、左手前から長富検事長、公平高知営林局長、筆者(昭和48年3月)

上の娘の江見が高校二年になり、関東方面へ修学旅行に行った時のことです。学校で事前に、東京の旅館へ面会にくる人がいるなら届け出るように、との調査がありました。そこで、娘が大好きだった「千代の山」と書いて出すと、先生が「千代の山がくるはずはないじゃないか」と言って、取り合ってくれなかったそうです。
一方、私は私で東京の千代の山関に電話して「娘が会いたがっているから」と伝えてありました。するとどうでしょう。旅館へ奥さんと一緒に会いにきてくれたのです。みんな大騒ぎになり、娘は仲よしの友達と一緒にご夫婦に都内を案内してもらい、ごちそうになったそうです。
それから、娘が東京を出発する日、東京駅のホームにお弟子さんが、もろぶたのようなものに江戸前のおすしの折をいっぱい入れ、かついで届けてくれたそうです。
うれしくなった娘は、列車の中で友達におすしを分け、千代の山関の話をしながら食べました。しかし、引率の先生にだけはあげなかった、と言います。事前調査でせっかく「千代の山」と書いたのに、信じてもらえなかったのが、よっぽど悔しかったのでしょう。
昭和三十四年一月引退した千代の山関の断髪式では主人もはさみを入れました。順番がきた時「高知県代表、濱口八郎殿」と呼ばれたそうです。「やったもんじゃ、おれも高知県代表じゃったきのう」と、主人は帰ってきて自慢していました。主人がはさみを入れている写真はずっと店に飾ってあります。


15.佐田の山関

無口で地味なタイプ

佐田の山関(境川元理事長)とカメラに納まった筆者(旧「濱長」本店)

お相撲さんに対する主人の熱の入れようは尋常一様ではありませんでした。高知巡業の時は店の入り口に力士ののぼりを立て、夜はひいきの千代の山関ら出羽一門の関取や若い人を大広間に集め、飲ませたり食べさせたり。本当にお相撲一色になりました。
千代の山関の弟弟子で、現在は日本相撲協会の理事長をなさっている現境川親方の佐田の山関をはじめ、現陣幕親方の北の富士関らもきました。みなさん立派な横綱、親方になりましたが、うちの店では本当にくつろいで楽しそうにお酒をぐいぐい飲んでいました。
千代の山、北の富士関が歌も上手、踊りも達者だったのに比べると、佐田の山関はお相撲の取り口は別にして、どちらかと言えば無口で地味なお関取でした。
横綱になったのが昭和四十年三月。その翌年くらいだったと思います。同門のお相撲さん二、三人とうちの店にきてお酒を飲んでいた時のことです。ちょうど塩見俊二先生が高知にお帰りになっていて、別の部屋でマージャンをしていらっしゃいました。
そのうち、だれかの口から佐田の山関がきているのを聞いた先生が私に「ここへ呼んでくれ」と言い出しました。先生は佐田の山関とは面識がなかったのですが、親方とはお知り合いだったらしいのです。
しかし、私は困りました。相手は天下の横綱です。それに、うちの子供をおふろに入れ背中を洗ってくれたりしていた千代の山関ほど親しい関係ではなかったものですから、いかに先生のご希望でも、佐田の山関が承知してくれるかどうか自信がありませんでした。

気配り忘れぬ優しさ

佐田の山関ら巡業のお相撲さんとにぎやかに (旧「濱長」)

私が佐田の山関に「参議院議員の塩見先生がお呼びになっていますが…」と伝えますと、案の定、ぴしゃりと断られました。
「おかみさんには巡業にくるたびにお世話になっていますが、きょうは自分たちだけの息抜きにきているので、そういう席には…」
もちろん横綱としてのプライドもあったでしょうし、これは佐田の山関のほうが筋が通っていました。
ところが、私が断られたことを先生のところへ言っていくこともできず、うろうろしていますと、しばらくして一緒にいたお相撲さんが私を呼びにきました。そして、佐田の山関が「おかみさんの紹介ですから、おうかがいします」と承知してくれたのです。
塩見先生の部屋へいった横綱は「佐田の山です。よろしくお願いします」と礼儀正しいあいさつ。
先生も「やあ、よくきてくれた。ありがとう」と上機嫌。いつの間に用意させたのか、ご祝儀を渡されました。
たったそれだけのことでしたが、私は佐田の山関が私の立場を考え、私の顔を立ててくれたことがうれしく、感謝しました。
しかも、横綱の気配りはそれだけではありませんでした。お酒が終わって店を出るとき、送りに出た私にそっと「下働きの人にあげてください」と言って、ご祝儀袋を差し出したのです。中には二万円入っていました。
私ども夫婦は、お相撲さんにごちそうしたり、ご祝儀をあげたりしたことは随分ありましたが、お相撲さんにお心付をいただいたのはこの時だけ。横綱は強いだけではないのだな、と思いました。


16.かまぼこ流家元

「寅熊会」のメンバー

にぎやかに「はし拳」を打つ永野寅太郎さん=右側(旧濱長)

昭和三十一、二年ごろから、うちの店に時々集まっていた「寅熊会」というグループがございました。メンバーは永野蒲鉾店の永野寅太郎さん、県議会議員で西岡寅太郎商店の西岡寅太郎さん。後の県議会議員で大熊水産の泉清利さん、当時の高松国税局長、武樋寅三郎さん。
泉さんだけは、お名前に「寅」の字が付いていませんでしたので、会社名から「熊」の字をとって「寅熊会」。これに、お酒を全くあがらなかった高知新聞社の小松鶴喜さんと私の主人の濱口八郎が仲間入りしました。
みなさん気のおけない方ばかりでしたが、なかでも永野さんと主人は大の仲よし。三十三年に高知スーパーマーケットができた時も、相談を受けた主人が永野さんを社長に推薦したほどでした。
高知スーパーの社長になってから、永野さんは取引先の接待などもあって、以前にも増してうちの店を利用してくださるようになりましたが、お酒が入ると必ずといっていいほど舞台に上がり、唄(うた)でこい、踊りでこいの芸達者でした。
そこへいくと、主人は全くの下戸でしたので、塩見俊二先生が高知へお帰りになった時などは、すぐに永野さんを呼び、お相手をしてもらっていました。横綱の千代の山関が巡業できた時もそうでした。
主人に言われて私が電話しますと、永野さんはいつも口ぐせのようになっていた「ええとも、ええとも」の二つ返事。舞台で永野さんの唄や踊りが始まりますと、主人が「よう日本一」の合いの手を入れる。永野さんもますます調子がでてみな拍手かっさい。それそれはにぎやかでした。

大阪の芸者衆びっくり

「寅熊会」のメンバー

いつだったか、塩見先生と永野さん、それにうちの主人が一緒に大阪ミナミの料亭に行った時の話です。座敷にきた芸者さんたちがお得意の踊りを一通り披露したあと、先生が「永野、負けずにやれ」と声をかけ、まじめな顔で「これからかまぼこ流の家元が踊りをお見せします」とおっしゃったそうです。
料亭で用意した浴衣に着替えた永野さんの見事な踊りに芸者衆もすっかり感心。そのうちの一人が「先生、ただいまかまぼこ流とおっしゃいましたが、これはどういう流儀でしょうか」と尋ねたらしいのです。
すると、うちの主人がすかさず「実は、この男は土佐のかまぼこ屋の主人じゃ」と答えたものですから、芸者さんたちも大笑い。家に帰った主人にその話を聞いた私も、しばらく笑いが止まりませんでした。
永野さんは主人より年上でしたが見かけは若く、主人を呼ぶ時はいつも「お父さん」と言っていました。料亭の主人を「お父さん」、おかみを「お母さん」と呼ぶのは、この世界の習慣ですが、永野さん「お父さん」には本当に親しみがこもっていて、私も家族同様の通じ合う気持ちを感じていました。
その永野さんも主人も亡くなりました。世の中も変わって、最近はあんなに楽しそうでにぎやかなお座敷が少なくなりました。二人はきっと、私たちに見えないところでコンビを組み、仲よくやっていることでしょう。いまでも、主人の「日本一」の掛け声が聞こえてくるようです。


17.二人の本部長

アロハでぶらり

千代の山関と舞台に立つ高木県警本部長(旧「濱長」本店)

有名な岸本社長殺害事件があった昭和三十一年ごろ、高知県警本部長だった高木貞年さんは実に天衣無縫、警察の方としては、それはそれは型破りでした。
当時、高知新聞社の警察回り記者で後の取締役になった梅原薫明さんと大の仲よし。よくご一緒に来てくださいましたが、ある日、まだ明るいうちにアロハシャツで、それも豆千代さんという舞妓(まいこ)まで連れてお見えになったのには驚きました。
高木さんは、日ごろから堅苦しいのが嫌いで、軽装でお出かけになることが多かったようです。ご本人にしてみれば、料亭へ行くのにアロハは当たり前、くらいのお気持ちだったのでしょう。梅原さんはよく高木さんのことを「アロハの本部長」とおっしゃっていました。
そんな調子ですから、お座敷でも歌や踊りでにぎやかなこと。先に書きました横綱千代の山関にもお引き合せしたところ、すっかり意気投合し、ご覧の写真のように仲よくマイクを握ったこともございました。
ただ一つ、お小用をしたくなると、がらがらっと廊下のガラス戸を開け、庭に向かって勢いよく用を足すことがちょいちょいあったのには閉口しました。
トイレにご案内しようとした仲居さんが見ていても平気の平左。これがほかの方なら傍若無人と非難されたでしょうが、高木本部長さんの場合は例外。同席のお客さんもいやな顔をなさったり、どがめたりすることが全くございませんでした。
それは誰にも親しまれたお人柄だったからだと思います。

「お茶を」と言われて

千代の山関と仲よく飲んだり歌ったりの高木県警本部長(旧「濱長」本店)

その高木さんの前、つまり国家地方警察から県警察に替わったときの初代本部長が、後に人事院総裁になった内海倫さん。高木さんとは好対照の物静かな方でした。
ある日、お酒がほぼ終わったところで「お茶を所望しようかな」とおっしゃいました。そこで、私がお茶を入れてお出ししたところ、手に取ろうともされず「これは違う」と言われるのです。
私は何がどう違うのか訳が分からず困ってしまいました。すると、小さな声で「僕が欲しかったのはお薄のことだよ」と教えてくださいました。
私は翌日からお茶の先生のところへ一週間を通いつめ、即席ながらお薄のたて方を習いました。いま考えると、お客さんに精いっぱいのおもてなしをしなければならない料理屋のおかみとしての意地だったかもしれません。
そして幾日かたち、内海さんが次にお見えになったとき、お薄をたててお出しすることができました。「ああ、これだよ」と、褒めていただいて嬉しかったのをいまも忘れることはできません。
内海さんとは三年前、三十数年ぶりにお目にかかることができました。いまの鏡川べりの店へおこしになったのです。
内海さんは最初、私の顔をお忘れになっていたようでした。しかし、ごあいさつする声を聞いて「あ、思い出した。あの時のおかみさんですね」とおっしゃってくださいました。それは「お茶を」と言われたときを同じ静かなお声でございました。