TOPICS

  • 晴れの日のおきゃく和婚
  • おすすめコース
  • 料金プラン
  • ご予約の手引
  • 濱長Facebook
  • 私たちはピンクリボン運動に取り組んでいます。

18.二隻の屋形船

浦戸湾内を風流に

屋形船に乗って、浦戸湾で捕れる魚をご覧になる高松宮さま(中央の柱の右側)

現在、うちの店がある高知市唐人町の鏡川べりに、民家を改造して旅館「濱長別館」を始めたのは昭和二十四年です。その年か翌年だったかと思いますが、鏡川と浦戸湾内を風流に楽しめる屋形船を造りました。
「これからの高知は観光を盛んにすることが大切。それには何か名物がいる。座敷代わりの屋形船はしゃれちゅうじゃいか」と言う主人の発想でした。
長さ一一・九メートル、幅二・四メートル、四・六一トン。建造費は二十九万八百円。畳敷きで、お客さんは二十人くらい乗れました。両側に同じ人数ずつ座り、中に料理を置き、仲居さんがいてお世話をするのです。
エンジンが付いていて、運転はそのころ帳場にいた番頭さんがしましたが、時々は主人もやっていました。浦戸湾へ出ると巣山へつけて、船の中で飲んだり食べたり。いくら騒いでも海の上なので周囲に迷惑をかけることはありません。いい時代でした。
県外のお客さんの接待に利用してくださることが多く、高松宮さまがお乗りになったこともありました。正直申しまして、船に料理を持ち込むのが大変。高価な食器を割ることもちょいちょいあって、そうもうけにはなりませんでしたが、高知の宣伝にはかなり役立ったと思います。

台風で流され沈没

「濱長」が所有した屋形船の内部

正確な年月は忘れましたが、この屋形船は大きな台風で鏡川が増水した時に流され、下流の橋げたに当たって沈没しました。
船は別館の庭にあった高知一と言われた松の木につないでありましたが、ものすごい濁流で流されそうになったため、若い衆がロープを引っ張り、主人が船に乗ってエンジンをかけ、陸に乗り上げようとしたそうです。
ところが、そのロープが切れたからたまりません。主人を乗せたまま船は流され、下流の橋に当たって砕けました。主人は濁流の中へ放り出され一瞬意識を失ったそうですが、気がつくと板切れがあったので、それにつかまり流されているところを助けられました。お医者さまが来てからは、眠らせてはいかんと、みんなで体や腕をぴしゃぴしゃとたたきながら手当をしていただきました。たまたま皮のジャンパーを着ていたのが心臓の冷えるのを防いだらしく、九死に一生を得たのです。
この事故があって、私はもう金輪際、船はいやだと思いました。ところが、塩見俊二先生や高知新聞の社長だった福田義郎さんらが「やっぱり屋形船がないといかん。人間は一回死んだら二回死ぬことはないから大丈夫。もう一回造りや」とおっしゃるのです。そこで昭和三十年代になって、最初の船とそっくりの第二号を造りました。
ただし、主人に注文をつけ、風や雨があれば絶対に出さない、専門の船頭さんを雇う、この二つを守ってもらうことにしました。
そんな具合ですから、二隻目の船は動いているより陸に上がっていることが多く、やがて、ただ同然で人手に渡しました。
かつて屋形船を出していた鏡川べりに店が移ったいま、当時を懐かしがるお客さんは随分いらっしゃいます。それを知って、店を手伝っている孫が最近、新しい船を造る計画をたてています。さて、どうなるでしょうか。私は期待と不安を交錯させながら見守っております。


19.市丸ねえさん

お店を支えた指南役

市丸さん(左端)をひいきにしていた公平高知営林局長。真ん中が筆者(旧「濱長」本店)

「事業は人なり」と申しますが、うちの店のことを話すのに「市丸ねえさん」を抜かすわけにはまいりません。
店が南はりまや町に移転して間もない昭和二十四年ごろ、市丸さんは得月楼から移ってきました。とびきりの美人で芸達者。たちまち人気者になりました。
しかし、私が市丸さんに感謝しているのは、そういうことだけでなく、おかみの経験がまだ浅かった私の指南役として、お客さんとの接し方、仲居さんのしつけなど、あらゆる面で力になってくれたことでした。
夜は遅いのに、朝九時ごろには店へ来て、よく私を誘いお得意さん回りをしてくれました。お役所や会社へ行くのです。遠いところは電車に乗ればいいのに、市丸さんは「おかあさん、おないどしを使いましょう」と言って歩くのです。「おないどしを使う」のが、どうして歩くことなのかよく分かりませんでしたが、とにかく少々雨が降っても平気で歩きました。
先方へ顔を出すと、どこでも大変な人気。「よう市丸来たか」「いっちゃん、ゆっくりしていきや」とみなさんが声を掛けてくださり、その夜さっそく店へ来てくださるお客さんもいらっしゃいました。
店でのお客さんの扱いも心得たもの。私がお客さんに「はし拳」で勝ち続けたりすると「三回に一回は負けんといきません」と小声で注意してくれました。
ごひいきになっているお宅でご不幸があった時は、よく二人でお葬式にまいりました。「お祝いごとはご案内がないとうかがえませんが、お葬式はそうではないですからねえ。つとめて行くことにしましょう」と新聞広告にはいつも注意しておりました。この教訓はいまも守られています。

公平局長のお気に入り

昭和四十六年から二年間高知営林局長だった公平秀蔵さんも、市丸さんをひいきにしていた一人でした。
初めてお見えになった日、お相手をした市丸さんが翌日、私に「今度の局長さんはなかなかしゃんとした方ですよ」と耳打ちしてくれました。それは、立派な方という意味のほかに、ちょっと気難しいところがあるというような口ぶりでした。そのころ、営林局は一番と言っていいほどのお得意でしたので、市丸さんも気になったのでしょう。
次にお見えになった時、座敷に出た私があとで市丸さんに「あんたが言うほどのことはないじゃいか」と申しますと、市丸さんはこんなふうに教えてくれました。
「気に入らないと口に出しておこる人はしよいが、あの局長さんは口に出しません。そのぶん、気を配ってあげないといきません」
口に出す代わりに、ひたいの筋がぴくぴくっ動くというのです。さすがだな、と感心しました。公平さんは、お飲みになるのはビールだけ。それも普通の半分くらいの小さなグラスでお飲みになるのが好きでした。市丸さんと二人で、専用のグラスを買いに行ったほどです。
私より一回りほど年上だった市丸さんはだいぶ前に亡くなりました。入院した時、どこで聞いたのか公平さんが県外からお見舞いにきてくださいました。「早く元気になってね」と励ます声に、市丸さんの顔が嬉しそうでした。


20.お四国参り

家族、店のことも忘れ

白装束を身につけ、かわいい孫を連れてのお四国参り。 左端が筆者(徳島県の藤井寺)

私が「お四国参り」を始めたのは三十年ほども前のこと。当時、東京の高校に通っていた二男が交通事故に遭いましてね。大きな手術をして、それが治ったお礼に夫婦ではじめたのです。
そのうち、その子が運転免許をとったので、休みで帰ってきた時には乗せてもらい、親子三人で回りました。最初は札所についての知識は全くなく、道を尋ね尋ねてのお札参り。八十八カ所を全部回るのに二年くらいかかりました。
次は塩見俊二先生の夫人後援組織「さんご会」の会長で、産婦人科のお医者さんだった寺尾澄江先生と一緒に回りました。寺尾先生とは、さあ五回くらい回ったでしょうか。先生は、ご自分がお医者さんなのに「濱長さん、世の中には科学だけでは解決できないことがいっぱいありますよ」と、よくおっしゃっていました。
私も回を重ねるごとに、目に見えぬ何かにひかれ、心のやすらぎを覚えるようになりました。二男のけがが札所回りを始めたきっかけでしたが、重い足をひきずりながら石段を上がり、ご本尊の前に手を合わせると、家族のことも店のことも忘れ、無我の気持ちになれるようになりました。
寺尾先生のあと、現在は主人の妹と誘い合って回っています。春になれば桜が咲くところ、秋は紅葉が美しいお寺、という具合。ことしも三月に十九カ所回って参りました、
平成三年は五歳の孫を初めて連れて行きました。この子は生まれたばかりのころ、病気で幼い命を失いかけたことがあります。それがすっかり丈夫になり、私たちと同じようにお経を唱え小さい手を合わせるではありませんか。そのいじらしい姿を見て、周りの人が「まあ、お稚児さんみたい」と言って、頭をなでてくださいました。

大変身した部長さん

うちの店のお客さんの中にも、私の話を聞いて「お四国参り」を始めた方がいらっしゃいます。昭和五十八年ごろ高知営林局の経営部長だった林寛さんもその一人です。
ある日、私が愛媛県の横峯寺に行くのを知り、「どうしても連れて行ってくれ」と言い出しました。そして約束の日、がっちり登山靴をはいて現れました。さらに驚いたのは、向こうで車を降りてからの山道を勢いよく歩き通されたことでした。
考えてみれば、営林局のお役人ですから山道には慣れていたのでしょうが、私は宴席での林さんしか知らなかったので驚きました。
これがきっかけで、林さんはその後も札所回りを続けていたようでしたが、しばらくしてまた私がびっくりすることがありました。
ある日、林さんがうちの店で主人と話し込み泊まったことがございました。翌朝、私が食事の支度に起きると、どこからかお経が聞こえるではありませんか。不思議に思って行ってみると、なんと林さんが一心不乱に般若心境をあげていました。その姿は、まるで本当のお坊さんのようでした。
林さんは翌年、県外に転勤になりましたが、昨年の夏、突然電話をくださいました。そして、とうとうお坊さんの資格をとったと言うのです。これには、またまたびっくりしました。
林さんをそこまでひきつけたのが一体何だったのか。それは私にも分かりません。


21.千代の富士関

まるで役者さんの印象

横綱千代の富士関(左)、二代目若乃花関(右)と筆者(昭和57年)

先月、千代の山関と佐田の山関の思い出を続けて書きましたところ「千代の富士のことはどうして書かんがぜよ」と言うお客さんがいらっしゃいました。うちの店のフロントに千代の富士関が使っていた横綱をガラスケースに入れて飾ってありますので、その方は当然、次に千代の富士関が出てくると思っていたのでしょう。
平成四年四月から元北の富士関と交代して九重親方になった小さな大横綱、千代の富士関との出会いは昭和五十三年に再入幕したころ、親方に連れられてうちの店に来たのが最初でした。
白の大島を着て、きりりと引き締まった顔。ご存じの通り体はお相撲さんにしては小さく、見たところ役者さんのような感じでした。正直言って、私は「これくらいの体では、大して出世できないだろう」と思っていました。
事実、そのころの千代の富士関は肩を脱臼することがよくあって、成績にもむらがありました。うちの主人も「あいつは小さな体の割に大きな相撲を取るからなあ」と、嘆いていました。
ところが、五十五年に何回目かの三役入りをしたころから急に強くなり、次に店へ来た時には大関になっていました。その時はさすがに堂々としていましたが、ちょっとふてぶてしいところがあり、私はあまり好きになれませんでした。
それが、大関わずか三場所で横綱になり、その後で来た時は、すっかり物腰が変わり、私にもきちんと「お世話になります」とあいさつしてくださいました。その時、私は初めて千代の富士関と話をしました。私がお相撲さんになったわけを聞くと「亡くなった先代親方(元千代の山)に、飛行機に乗せてやるから、と言われましてね。それにつられて北海道から出てきました」と言っていました。

本場所のたびにのぼり

本場所のたびに玄関に立てていた千代の富士関ののぼり(旧「濱長」本店)

残念だったのは六十二年四月、高知巡業で来た時のことです。主人は入院していましたが、たいそう気にかけていて、長男を高知空港まで迎えにやりました。ところが、教えてもらった時間が違っていて、長男が空港に着いた時はもうどこかへ行ったあと。とうとう主人に会わせることができませんでした。
「お前のブンがたたんき、よそへ連れていかれてしもうた」と長男をしかっていた主人は、きっと鏡川べりに移転した現在の新しい店で千代の富士関をもてなしたかったのだと思います。
千代の富士関は平成二年四月、もう一度巡業で来ましたが、残念なことにその前年、主人は亡くなっていました。だから。千代の富士関が新しい店に来たことはありません。主人の気持ちを思うと、私もそれが心残りです。
移転前、店が南はりまや町にあったころは、本場所のたび、玄関に「千代の富士関江」と染め抜いたのぼりを立てていました。もちろん、のぼりは主人が作らせたのですが、立てるのは私の知らない人でした。おそらく千代の富士関のファンだったのでしょう。場所が始まると、いつもやってきて、勝手に物置からのぼりを取り出し、立てていました。
主人がなくなり、千代の富士関も引退したいま、あののぼりがうちの店に立つことはもうありません。


22.北の富士関

親しみやすく男前

横綱時代の北の富士関(中央)と当時の九重親方夫妻

大相撲の九重部屋はいま、元千代の富士関が継いでいますが、この部屋は私ども夫婦がたいそうひいきにしておりました元千代の山関が興した部屋でございます。その後を元北の富士関(現陣幕親方)が継ぎ、そして現在に至っております。三代の親方がそろって元横綱ですから、たいしたものです。
千代の山関は、昭和三十四年に引退、しばらくは出羽一門の親方としてとどまっていましたが、三十九年に独立し現在の九重部屋を興しました。その時、まだ入幕したばかりの北の富士関も一緒に出羽の海を出ました。ほかの部屋と違って、出羽一門は分家を認めていませんでしたし、なにしろ大相撲界屈指の名門ですので、九重部屋の独立はいろいろ論議を呼び、親方はもちろん現役だった北の富士関もなにかとご苦労が多かったようでした。
そんな男意気にもほれたのでしょう。九重部屋ができると、うちの主人はますます親方や北の富士関に肩入れするようになりました。なにしろ、店が南はりまや町にあったころには相撲好きのお客さんに喜んでもらえるよう「九重部屋」という部屋があり、床の間に千代の山関の書を掛け軸にて飾ってあったほどです。
北の富士関が、うちの店にくるようになったのは、引退した千代の山関が独立する前、出羽の海部屋付きの親方をしていたころからでした。高知巡業の際、親方に連れられてきたのが最初だったと思います。その時はまだ関取に出世する前でしたが、すぐ十両、幕内と上がっていきました。ほれぼれするような男前のうえ、性格は親方のよいところをそのまま受け継いだように親しみやすく、ユーモアもたっぷり。のちにレコードも出したほどですから歌もうまく、店でもたちまち人気者になりました。

賀世さんをお嫁に

明るい人柄にひかれて、私の子どもたちも北の富士関とすっかり仲良しになっていましたが、特に二女の賀世とは年齢が一緒だったこともあって、なにかと話があっていたようでした。
ある時、ふっと私に「出世したら賀世さんをお嫁にくれませんか」と行ったことがあります。そう、賀世が高校の終わりころだったでしょうか。まだそんなことを考える年でもありませんでしたので、私は娘には何も言わず、聞き流していました。ところが、それから何年かたち立派になって店にきた北の富士関に「お嬢さんはどうしてますか」と尋ねられたのです。その時、娘はもう婚約をしていましたので、正直にそう申しますと、急に口数が少なくなり黙って店を出て行ってしまいました。その後は、現在の高知大丸東館のところにあったキャバレー「リラ」に行き、ちょっと荒れたのでしょうか。困った「リラ」から電話がかかってきて、主人が慌てて迎えに行ったのを覚えています。

おかみの日記 出版祝賀会で


陣幕親方(左から2人目)と濱田四国銀行頭取(その右)

しかし、そんなことがあってからも、北の富士関と私たち夫婦とのお付き合いはまるで何もなかったかのように続きました。陣幕親方になったいまでも時々、店にくると、連れのお客さんに「いやあ、亡くなったここの親父さんには頭が上がらんかった」と話していますが、それはおそらくあの時のことを言っているのだと思います。大関、横綱と出世しても相変わらず天衣無縫。気っぷもよく、ひいきからご祝儀をいただくと、おひねりをいくつもつくって両方のたもとに入れ、お弟子さんたちが手を突っ込んで分けてもらっていました。店の仲居さんが一緒になって手を突っ込み、きゃあ、きゃあと大騒ぎしていたこともありました。
この「おかみの日記」を最初に出版した時の祝賀会にも、陣幕親方はわざわざ駆けつけて、スピーチもしてくだざいました。一晩泊まった翌日は、空港まで賀世が送ってまいりましたが、車の中で一体どんな話が弾んだのでしょうか。あの時の話が出るたびに娘は「お母ちゃんが北の富士さんのことをちゃんと言うちょってくれたら、私の人生が変わっちょったかもしれんねえ」と冗談を申しております。


陣幕親方(中央)と筆者(左端)。右は長男の友良