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23.「涼しさ」で売る

夕立ち降らす工夫も

旧「濱長」の正面入り口。玄関横の小さな庭にも涼しさを感じさせる工夫(高知市南はりまや町)

戦争が終わって間もなくの昭和二十年代は、どの料亭にも冷房施設はありません。私どもの店が高知市丸ノ内から南はりまや町に移った後も、しばらくは扇風機でした。それも、一つの部屋に二つ置くのがせいぜい。お酒が入ると「暑い、暑い」とおっしゃって、ランニング姿になるお客さんもいらっしゃいました。
そこで、私が考えたのが「夕立を降らせる」ことでした。「おおの暑い。夕立でも降らんろうか」とおっしゃるお客さんの言葉にヒントを得て、なんとかできないものか、と知恵を絞ったのです。
と申しましても、私が考えることですから方法は至って簡単。部屋の軒下のトイに沿って小さなビリール管をぶら下げ、その管に二十センチくらいの間隔で下向けに穴を開ける。そして水道から水を流す。蛇口をひねると管を水が通り、思っていた以上にうまく穴から「雨」が降りました。お客さんの間でも「やったもんじゃ。濱長へ行くと、天気のええ日でも雨が降る」と評判になりました。
しかし、この名案も水を出しっ放しにすると水道代がかさみますし、忙しい時に蛇口を開けたり閉めたりするのも大変だったので、ひと夏かふた夏くらいでやめました。
次は各部屋の天井に大きな羽の扇風機を付けました。これは昭和二十六、七年ごろ、主人が大阪国税局長だった塩見俊二先生をお訪ねして、向こうの料亭に招かれた時、天井に立派な扇風機が付いていたのに目をつけ、さっそく十台ほど注文して帰ってきました。
「ええもんを買うてきたぞ」と自慢する主人の言うままに、当時七つあった部屋の全部に取り付け、余った機械はほかの料亭に分けてあげました。私は競争相手のよその店に分けるのはいやでしたが、主人に「そんな了見の狭いことでどうする」と言われ、しぶしぶお譲りしました。

地下水くみ上げ冷房

それから一、二年たって次はいよいよ冷房です。当時は家庭用も現在の空冷式ではなく水冷式。お隣にあった第一生命さんの敷地を畳半分ほどお借りして、そこに井戸を掘り、くみ上げた地下水を冷房機に使いました。
主人は「こんなにすき間がいっぱいある部屋で冷房したちいくか」と反対でしたが、この時は私が強引にやりました。高知の料亭で冷房をしたのは、うちが一番早かったと思います。
夕立を降らせた時と違って、これには相当お金がかかり、銀行から融資を受けましたが、そのかいあって評判は上々。最初の夏は連日満席で、大いに繁盛しました。
しかし、翌年になると、同業のどの店も冷房を始め「涼しい濱長」を売り物にすることはできなくなりました。おかげで、冷房設備にかかった費用はなかなか取り戻せませんでした。
それより困ったのは、地下水をくみ上げるポンプがいつ故障するか分からぬことでした。これが止まると全くお手上げ。お客さんからは苦情がでますので、電話を掛けるといつでも直してもらえるようポンプ屋さんに手配しておりました。
それでも不安でしたので、天井の扇風機もしばらくは取り外さず残してありました。冷暖房が完備した現在では、まるで笑い話のような思い出です。


24.日本一の本部長

懐かしい「湯島の白梅」

首相秘書官になった金沢さん(前列右から3人目)の送別会で。金沢さんの左が筆者(旧「濱長」)

昭和四十八年八月から一年間、高知県警本部長をされた金沢昭雄さんは、のちに警察庁長官にまでなっただけあって、私どもの目から見ても、それは素晴らしい方でした。
まだ本部長に発令される前、既にその人事をご存知だった参議院議員の塩見俊二先生が私に「おかあ、今度来る本部長は日本一じゃき、大事にせないかんぜよ」と教えてくださいました。その先入観があったのかもしれませんが、歓迎会で私どもの店に初めてお見えになった時の金沢さんは、きりりと引き締まり、スマートに見えました。それでいて、周りの人に対する態度は優しく人を見る目はこえていたつもりの私も感心することばかりでした。
お酒は強く、歌もお得意。歓迎会でも、すっくと立って「湯島の白梅」をお歌いになりました。若いころ署長をしていた警視庁本富士署の管内に「お蔦・主税」の湯島天神があったので、この歌をずっと「十八番」になさっていたようでした、
高知での生活に慣れたある日のこと「おかみさん、今度の休みにドライブに行こう」と誘ってくださいました。うれしくなった私は朝からよそ行きの着物を着込んで待っていました。何と言っても本部長さんだから、運転手付きのばんとした黒塗りの乗用車でお見えになると思っていたのです。
ところが、やってきたのは案に相違して白い小さな中古車。ノーネクタイで軽装の金沢さんご自身が運転していました。私はいまさら着替えもできず、そのまま助手席に乗せてもらい、大豊町まで行きました。そこでコーヒーをごちそうになり帰ってきましたが、周りに人々の目にはどう映ったでしょうか。いま思い出してもおかしくなります。
県警の方に聞くと、公私の別は非常にきちんとされていて、在任中、よくご自分の車でお出かけになっていたようです。

杉原秘書官が推薦

その金沢さんが、本部長わずか一年で高知を去ったのは、当時の田中角栄首相に秘書官として迎えられたからでした。四十九年七月、参議院選挙の遊説で来高した田中首相は、宿舎の城西館で金沢本部長と一緒に夕食をされました。
その夜、県警総務室長だった野瀬伝一郎さん(現土佐電鉄専務)が、金沢さんの警察庁の一期先輩で首相秘書官をしていた杉原正さんという方をご案内して、うちの店にお見えになりました。お二人のお話から察すると、警察庁に帰る時期がきた杉原秘書官が後任に金沢さんを推薦、それで田中首相がお呼びになったようでした。
金沢さんが首相秘書官に決まり高知を離れる時、高知新聞社の今は亡き梅原薫明さんや社会部方たちがうちの店で送別会を開きました。その時、梅原さんが私にそっと「金沢さんは十年したら長官になる。覚えちょきよ」と耳打ちしてくれました。
十年というわけにはまいりませんでしたが、金沢さんは六十三年一月に警察庁長官になり、在任中に一度、鏡川べりの新しい店にきてくださいました。
本部長のころと変わらぬ若々しい金沢さんにお会いして、私は「湯島の白梅」をお歌いになった歓迎会のことを思い出しました。


25.「長生苑」

思わぬ融資に感謝

私が高知市南はりまや町の「濱長」と背中合わせの電車通りで焼肉店「長生苑」を開いたのは昭和三十七年でした。当時、四人の子供は学校や嫁ぎ先の関係ですべて東京住まい。ある時、上京した私を二女の賀世が連れていってくれたのが、私には初めての焼肉屋さんでした。そして「高知でも、こんんな店を開いたらはやるぞね」という二女の言葉に「よっし」と思い立ったのです。
しかし、高知へ帰って話をすると、万事慎重な主人は「やちもないことをするな」と言います。やむなく一人で四国銀行に融資を申し込みました。「担保もないのに…」と主人は猛反対です。私も、やっぱり駄目だろうと諦めました。
そこへ偶然、それまで全く取引のなかった高松相互銀行(現兵庫銀行)高知支店の川竹光男さんという方が預金の勧誘に来ました。融資を断られかっかしていた私が「預けるどころか、お金がのうて困っちゅう。三百五十万円ばあ貸してくれんかね」と申しますと、川竹さんが「二、三日待ってくれませんか。相談してみます」と言うのです。
「担保もないのに貸してくれるはずがない」と思っていた私は、約束通り二、三日してやってきた川竹さんが「本店と相談した結果、融資することにしました」と言ってくれた時には、うれしいやらびっくりするやら。一瞬ぽかんとしました。
後で聞くと、当時の高松相銀の社長さんが、かつて大蔵省高知財務部長をしていたころ、うちの店を利用してくださっていたうえ、私たち夫婦と特別な関係にあった塩見俊二先生とお知り合いだったことが分かりました。その社長さんが「責任は僕が持つから貸してあげなさい」と言ってくださったそうです。川竹さんは現在、明星産商という会社の副社長になっていらしゃっいます。

大当たりの焼き肉店

こうして開業資金ができ、焼き肉店は料亭東側にあった子供用の別棟を壊して新築しました。最初反対していた主人も、いざとなると徳島からインテリアの人を呼んでくれるなど協力してくれ、斬新な、ぱりっとした店ができました。白い壁に黒の格子。このコントラストが実に鮮やかでした。
料理人は二人。大阪の有名な朝鮮料理店に一人一ヶ月ずつ勉強にやりました。秘伝のたれも特別に教えてもらい、味は上々。高知にまだ焼き肉が珍しかったこともあり、しばらくはお客さんの列ができるほど繁盛しました。
私は料亭のおかみの本業に励む一方、手があくと裏口から「長生苑」へ回り、エプロン掛けで手伝う忙しさ。おかげで、子供たちの学費と東京での生活費は十分稼がせていただきました。
この店は数年後、高知に帰ってきた二女に譲りました。そのころには高知にも随分できていた同業者に負けないよう娘も頑張りましたが、店の敷地を「濱長」本店の敷地と一緒に地主さんへお返しする必要が出てきたため、昭和六十一年に廃業しました、
しかし、子供たちの東京での学費や生活費をこの店でつくらせてもらっただけに思い出は格別。先日、懐かしい「長生苑」のマッチが一つだけ残っていたのを見つけました。そして、シュッとすって炎を見ているうち、思わず波だがこぼれそうになりました。


26.鏡川べりへの移転

夫の入院中に決める

昭和61年、鏡川べりに移転オープンした現在の「濱長」(↑印) 旧店舗は(↓印)のところにあった(高知新聞社提供)

私どもの店が現在の高知市唐人町に映ったのは昭和六十一年ですが、それまでの南はりまや町では四十年近くも営業させていただきましたので、主人も私も「できれば南はりまや町の濱長のままでいたい」というのが正直な気持ちでした。
しかし、あの店の敷地は川崎源右衛門さんからの借地で、その川崎さんから五十五年ごろ「ホテルを建てるので移転してほしい」とのお話があったのです。
私どもはできれば移りたくなかったので、それから川崎さんと話がつくまでの数年間は、何かと思い悩むことが多く、精神的に本当に疲れました。
皮肉なことに、川崎さんのお住まいは唐人町の現在の店の隣です。移転前はここに私どもの別館があり、川崎さんと私の長男は子供のころ一緒に遊んだ仲。高校と東京の大学も同じでした。
そんな間柄でもありましたので、むげにお断りすることはできませんでしたが、いちばん頭を痛めたのは、移転するにしても鏡川べりの私どもの土地は狭く、南はりまや町の店に比べると半分くらいしかないことでした。主人もそれを心配し、移転には最後まで反対でした。
しかし、どちらかと言えば思い切りのいい私は、いつまでも立ち退きを迫られたままの状態でいるのがいやでした。そんな時、たまたま主人が体をこわし、しばらく入院しました。その間に、申し訳ないと思いながら長男と相談、移転することに決めたのです。主人には、立ち退きの条件など川崎さんとの話がついてから説明、しぶしぶ許してもらいました。
このように、私どもにしてみれば、悩みに悩んだすえの移転でしたが、その跡にホテルを建てるという話はうまくいかなったようで、いまもずっと駐車場として使われています。


松田営林局長の口添え

新しい店は六十年暮れにできましたが、開店は翌六十一年の二月三日「節分の日」にしました。開店を遅らせたのは、縁起をかついだのと、建物だけでなくすべてがきちんと整ったうえでお客さんをお迎えしたかったからです。
いざ移ってみると新しい店はすぐ下を流れる鏡川が敷地の狭いのを十分に補ってくれて大成功。それに「魚梁瀬杉の間」「大正ヒノキの間」など、土佐の銘木を使った部屋を造ったのも好評でした。
しかし、その部屋を造るに当たっては大変な手違いがありました。私どもは最初から「銘木の間」を造るつもりで、建築をお願いした大旺建設さんに言ってあったのですが、どういうわけか、それが十分に伝わっていなかったのです。
ある日、大旺の中谷健社長(現会長)と高知営林局の松田尭局長が一緒にお見えになった時、私が「銘木の間の話をすると、中谷さんが「そんなことは聞いてない。もう小作りが進んでいるので間に合わんかもしれん」とおっしゃいました。驚いた私が「それでは困ります」と言うそばで、松田さんが「土佐の銘木の宣伝にもなることだし、ぜひ実現させてください。材木のことは、及ばずながらお手伝いさせていただきます」と、お口添してくださいまそた。
お陰で「銘木の間」はできました。いま思うと、中谷さんと松田さんが一緒にお見えに、私どもにとって、全く幸運としか言いようがございません。


同姓同名で間違える

金沢警察庁長官(中央ワイシャツ姿)歓迎会での吉村高知商工会議所会頭(向こう側左から4人目)、その右が筆者(平成2年)

鏡川べりへの移転に当たって、もう一つ忘れられないことがあります。それは四国銀行の前頭取で高知商工会議所会頭の吉村眞一さんのことです。
吉村会頭は頭取時代も時々お店にお見えになっていましたが、会頭に就任されてからは、私の主人が商工会議所に関係していたこともあり、利用してくださる機会が多くなりました。
お酒は絶対に熱かんでないと駄目。うちの店では会頭さんの席の近くに五徳を置き、それでおかんをするようにしました。あまりおしゃべりはなさらず、静かに召し上がるのがお好きなようです。
なにしろ高知県経済界トップの方ですので、おもてなしにはかなり気を配っておりましたが、たまたま同姓同名の吉村眞一さんが潮江にいらっしゃるため、移転お披露目の案内状を間違えて出してしまったのです。開店が迫ってミスに気づき大慌て。店を手伝ってくれている二女とおわびにうかがい、改めてご案内しましたところ、にこにこお笑いになって何もおっしゃらず、ほっとしました。もちろん銀行や会議所の方とご一緒に来てくださいました。


27.わが夫濱口八郎

「よさこい祭り」に貢献

夫婦そろっての金婚式の記念写真(昭和61年・「濱長」)

「おかみの日記」もいよいよ終わりです。これまでは、お客さまとの思い出を中心に書かせていただきましたが、最後はお許しを願って私の亡き夫、濱口八郎の自慢話を少々させていただきたいと思います。
それは私が料亭「濱長」のおかみとしてどうにかやってこられたのも、結局は主人の後ろだてがあったおかげだと思うからです。そのことを主人が亡くなってから、つくづく感じるようになりました。
正直申しまして、主人は自分の店の仕事にはそう熱心ではございませんでしたが、人さまに依頼されたり、大勢の人に喜んでもらえることになると大層力をいれました。特に高知県の観光振興には熱心で、高知市の夏の名物行事「よさこい祭り」には、高知商工会議所観光部会の役員だったこともあり、随分と力を入れておりました。生みの親の一人、と言ってもよいと思います。
「よさこい祭り」が初めて行われたのは昭和二十九年。鳴子踊りのあのにぎやかなリズム、鳴子のアイデアなどは、申すまでもなく作曲家の武政英策先生によるものですが、踊りの振り付けについては、主人が日本舞踊各流派のお師匠さんたちとの間に入って苦労していました。
南はりまや町にあった店の大広間に集まってもらい、いろいろ工夫をしておりましたが、お師匠さんたちの振り付けはどうしても、見て優雅な舞台踊りになってしまい、なかなか前へ進みません。これに対し「街頭での踊りなので、回ったり、後ろへ下がったりしていたのでは具合が悪い。とにかく前へ、前へ進むように」というのが主人の意見でした。
それは徳島の阿波踊りなど、先進地の視察も十分したうえでのことでしたが、専門家の振り付けを無視するわけにもいかず、あでやかなお師匠さんたちの中に入って、ああでもない、こうでもない、と注文を付けておりました。
しかし、祭りの日はだんだんと近づいてきます。そこで、一回目は仕方がないと手を打ったのが「三歩進んで、くるりと回り、一歩下がってチョン」という型だったのです。主人はその時のことを「よさこい祭り振興会」が昭和四十八年に出した『20年史』の中で書いております。

励ましてくれた元副総理

それほど「よさこい祭り」に打ち込んでいた主人も一時期、世話役を続けるのがいやになり「もう止めた」と言っていたことがあります。それは、歌詞の中の「じんま、ばんば」とか「よっちょれ、よっちょれ」という言葉にクレームが付いたり、祭り全体を批判する声があったからでした。
めったに弱音をはかない主人が「高知の観光宣伝と思うて一生懸命やりように、悪う言われてはたまらん」とこぼすのを聞いて、私は慰めようがありませんでした。
そんな時、主人を励ましてくださったのが、宿毛市出身で元副総理の林譲治先生でした。小唄もお上手な風流人だった先生は、うちの店へお見えになった時その話を聞いて「濱口君、地方の踊りはあまりスマートでなく、どろくさいくらいがいいんだよ。いろいろ言われても気にすることはない、頑張りなさい」とおっしゃいました。現金なもので、天下の副将軍ならぬ元副総理に励まされた主人は、またやる気を取り戻し「よさこい祭り」により一段と打ち込むようになりました。
その後、鳴子踊りの型はご承知のように年とともに変化してまいりました。主人はむしろそれを願っていたようで、生前よく「街頭踊りは型にこだわることはない。リズムに合わせて、だれでもできる単純な踊りがいい」と喜んでおりました。
平成元年七月二十八日午前一時から約四時間、RKC高知放送が生放送した「朝まで生討論!どうする?よさこい祭り」という番組には、主人もパネリストの一人として出演させていただきました。
実はその時、主人はもう体を悪くしていました。私は「夜中のこともあるので、ご辞退したら…」と申したのですが「高知放送がわざわざオレに声を掛けてくれたのに断れるか」と言って出掛け、放送が終わると上機嫌で帰ってきました。
その三ヵ月後の十月下旬、主人は亡くなりました。テレビへの出演は、未知の世界への旅立ちに当たって、いい土産話になったのかもしれません。

「浦戸大橋」でも一役

あまり知られていませんが、主人は昭和四十七年にできた浦戸大橋の建設にも一役買っています。この大橋は着工前、種崎側の取り付けをめぐって日本道路公団と件の意見が対立、計画が進まなくなっていた時期がありました。
このため、主人が高知県出身で公団の技術部長をしていた方と一緒にゴルフをしていた時、その方から「溝渕知事を説得してほしい」とのお話があったようです。
最初の設計では、らせん状にすることになっていたのを、車時代に備え直線式にしたい、というのが公団の考えでした。それには千松公園の松を少し切らねばなりませんでしたが、将来のことを考えると公団案がよいと思った主人は溝渕さんを説得するのに随分骨を折りました。
その後、完工間近になって公団から「大橋の通行料金徴収の仕事を民間に委託したい。もうけにはなるまいが引き受けてほしい」との話があり、主人と高知出身で仲のよかった大林組の久保内志瑳男さん、国則一夫さんが発起人となって南国道路施設株式会社という会社を設立。平成元年に亡くなるまで主人が社長をしていました。現在は私が務めさせていただいております。
平成元年十月、主人が亡くなった時、葬儀委員長は高知商工会議所の吉村眞一会頭に、というのが遺言でした。心よく引き受けてくださった吉村会頭は弔辞の中で、主人が料飲業界や「よさこい祭り」などに大いに貢献したことを挙げ「観光を通じて高知の活性化をはかるという、あなたの心を心として地域発展のために取り組む所存です」とおっしゃってくださいました。じっと聞いていた私は本当にありがたく、心の中で何度も何度もお礼を申し上げました。

弁当づくりに頑張る

主人と私の間には男二人、女二人の子供があり、孫は十一人、ひ孫も五人おります。この子供たちが中学や高校に通っていたころは大変でした。料亭の後片付けが終わり、私が寝るのは午前二時ごろ。それでも五時にはきっちり目を覚まし、四人子供たちの弁当をつくり、女の子スカートにはアイロンを当てていました。
料亭だから弁当くらいわけないだろう、と思われるかもしれません。しかし、店の冷蔵庫には、おかみといえども勝手に手をつけるわけにはまいりません。眠い目をこすりながら、お惣菜つくりに毎日頑張りました。
お手伝いさんにしてもらったら、と言う人もいましたが、私は子供たちのお弁当は自分で作りたかったのです。それは、私が子供のころ両親を亡くし叔父の家に引き取られ育ったからかもしれません。私が味わえなかった親のぬくもりを子供たちには感じてほしかった。そんな気持ちが知らず知らずのうちに働いていたとも言えましょう。