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28.「濱長丸」の復活

観光振興にも一役を

鏡川をゆっくり進む濱長丸

平成元年に亡くなった夫、濱口八郎が願っておりました屋形船「濱長丸」が復活し、店の前の鏡川に浮かんだのは六年十月でございました。昭和二十年代から四十年代にかけて、私どもの店にあった船とほぼ同じ大きさで、全長十三・五メートル、幅四・二メートル。「濱長丸」という船名の付いた、しゃれた姿を目の前にした時には、思わず「おじいさん、できたぞね」とつぶやきました。
十月三日には、たくさんの方にきていただいて、うちの店で「船出の会」を開きました。祝辞を述べてくださったお一人、県議会議員の中平和夫さんのお話では、主人は昭和六十一年、鏡川べりに現在の店が完成した時、「和夫さんよう、ええ店ができたけんど、もうひとつだけやり残しちゅうことがある。この店から船を出したいのう」としみじみ言ったそうです。
この屋形船は「濱長丸」という名前こそ付いていますが、美しい鏡川と浦戸湾をお客さんに楽しんでいただくことによって、高知市の観光振興にも一役買いたいというのが主人の生前の願いであり、店を引き継いだ息子や私どもの願いでもございます。正直に申しまして、建造にはかなりお金がかかりました。しかし、この気持ちがあったからこそ、完成させることができましたし、これからも立派に運航させたいと思っております。

一回、二時間くらいで周遊

船内で和やかに歓談するお客さん

いま「濱長丸」は昼と夜の二回、いずれも二時間くらいかけて鏡川─浦戸湾を周遊。船外の景色をご覧になりながらお料理を楽しんでいただいています。水に浮かぶ料亭の感じを出すため、船の外装・内装は純日本風にして、冷暖房は完備。若い方向けにカラオケもございます。定員は四十五人。準備の都合がございますので、十名さま以上の予約制をとっておりますが、一度お乗りになった方からの口コミもありまして、おかげさまで最近はお客さまが次第に増え、順調に営業を続けております。
ただ一つ残念なのは、このごろの鏡川は水量がめっきり減ったうえ、川底が浅くなっている関係で、私どもの店のすぐ横から船が出せないことでございます。やむを得ず現在は、店の少し東の方で乗り降りをしていただいておりますが、これをなんとかしたい、といつも思っております。
それと、丸山台、巣山、法師ヶ鼻といった由緒ある場所に関する簡単な説明を書いた刷りものを作って、お客さんに見ていただこうかな、というようなことなど、あれこれ考えています。
船ができた翌年の平成七年、私は県外から取り寄せたいろいろな種類の桜の木を三十本ばかり高知市に寄贈し、店の南側の鏡川べりに植えていただきました。この桜は立派な根を下ろし、ことしの春もきれいな花を咲かせました。私は鏡川と浦戸湾が好きなのです。昔のままとはいかなくても、もっともっと美しい姿を取り戻し、屋形船で風流に「土佐の食文化」を楽しんでくださる方が増えていくことを願っています。その時、私の「おかみの日記」は完結するのです。

                    

*補足
この濱長丸は、平成13年に濱長が一度暖簾を下ろした後、
行方がわかりません。
濱長復活の際に、濱長丸も当然ながら復活をさせたく、
総力を上げて探しましたが、高知県外へ流れてしまったのでしょうか。
そこに話が舞い込んだのが、今の「土佐丸」です。
「濱長丸」に比べると小振りではありますが、また違う趣があります。
千代子の植えた桜の木も順調に育ち、濱長を静かに見守ってくれています。
…ただ、常に進化し続けたい濱長です。
「おかみの日記」は永遠に完結しないでしょう。


濱長年表

昭和10年1月濱長初代となる濱口八郎(23)・千代子(21)結婚。当時、八郎は高知市田渕町(現桜井町)にあった酒屋「安岡」の店員。千代子も八郎を手伝う。
昭和11年頃知人に「どうせ酒を売るなら沸かして売ったらもっと金になる」と言われ、八郎の猛反対を押切り、菜園場の九軒長屋の真ん中の狭い住まいを二つに仕切り、千代子は飲み屋を始める。
戦争で日本の情勢が厳しくなり、物資不足の中、新京橋近くのレストラン「中央食堂」が持っていた「酒の配給を受ける権利」を、八郎が買い取る。(中央食堂が店を閉める際、料理店の組合のお世話をしていた八郎に譲ったのではないか)
昭和18年8月八郎、軍隊に招集される。「もう飲み屋はやめろ。酒の配給を受ける権利を売れば。一生食べていけるだろう」と言い残す。千代子「お金は使ったら減るが、体は使っても減らない。働きます」と朝倉の連隊に行き、言い張り、八郎は根負けする。酒の配給を受ける権利のおかげで配給制になってもお酒にそう困ることはなく店を続けることができる。
千代子、子どもを連れて実家のある窪川に疎開。
昭和20年8月終戦。八郎も帰還。「椿」「松原」「得月花壇」と共同で、高知公園の中にあった「花壇」の店を使い進駐軍用の料飲店を開く準備に取りかかるが米軍はこの「花壇」に目をつけ、将校用の宿舎に接収してしまう。このため、やむを得ず店は場所を変え、越前町で開業するが、結局はうまくいかず、間もなく解散。
昭和21年現在の丸の内高校南側の武藤さんのお屋敷を借りて店を始める。屋号を「濱長」とする。
昭和22年八郎、魚一貫(三・七五キロ)をヤミで買ったという容疑で警察に捕まる。罰金十万円を受ける。
昭和23年店を南はりまや町に移転させる。千代子の故郷・窪川町の民家を35万で買い、それを運んで建て直したものを店舗とした。
昭和29年7月高知商工会議所観光部会の役員だった八郎、高知在住の作曲家・武政英策氏のもとへ。「よさこい節をもとに、曲をつくり、祭りをつくりたい。祭りは今年の八月から。」と依頼する。日本舞踊の師匠らを巻き込み、8月に第一回よさこい祭りが開催される。
昭和37年背中合わせの電車通りで焼肉店「長生苑」を開く。(昭和60年、店の敷地を地主へ返還するため、閉店)
昭和61年2月3日現在の位置・高知市唐人町に店を移転オープン。
平成元年10月濱口八郎 死去。 
平成6年八郎の夢だった屋形船「濱長丸」が完成。
平成13年突然の閉店。宴会の終わったまま、瓶も皿もそのままに、6年の眠りにつく。
平成18年唐人町の土地を売却する話が出る。初代女将・千代子の「もう10年あったら私が買い戻してやるのに」の言葉を受け、賀世、美佐子が買い戻しにかかる。
平成19年11月同年の春に銀行の融資にこぎつけ、9月に改装工事着工〜11月23日にオープン。
平成21年道場六三郎氏を迎え、「桃花のおきゃく 道場六三郎を味わう」を開催。当時吹き抜けであった2Fフロアを道場氏のアドバイスにて改装し、特設厨房を設置する。
平成21年12月8日初代女将 濱口千代子 95歳で天寿を全うする。
平成22年四国四間の芸妓を一同に集めて舞を披露する「桃花のおきゃく 四国四県華の舞」を開催。(徳島は芸妓参加が叶わずであったが、阿波踊り・渦の会が参加。)
よさこい祭りチーム「濱長花神楽」結成。初出場「審査員特別賞」受賞。八郎の時と同じく、思いついたのは7月。
平成23年屋形船「土佐丸」の運航開始。(有志一同で買取り「かがみ川ゆうゆう倶楽部」を結成。)
ゴールデンウィークに舞の祭典「土佐をどり」を開催。以降、毎年恒例となる。
よさこい祭り2回目。前夜祭「サウンド賞」、本祭で「地区競演場奨励賞」、全国大会で「武政英策賞」を受賞。
平成24年2月高知県の要請で、高知県と台湾の友好のための事業「台湾ランタンフェスティバル」へ花神楽よさこいチームが参加をする。
平成24年3月賀世、女将から大女将に。美佐子は若女将から女将に。若女将に篠原瞳を迎える。また、この機に美佐子は苗字を「濱口」に戻し、名前を「美しい土佐の子」の美佐子から「実りある土佐の子」実佐子に変え、「濱長へ嫁ぐ」という心得で行きて行くことを決意する。
平成24年8月よさこい祭り3度目の出場。前夜祭「サウンド賞」、本祭で「地区競演場奨励賞」。原宿よさこいへ参加。「原宿賞」を受賞。
平成24年11月高知県の要請で韓国・木甫で開かれた「田内千鶴子生誕100年記念事業」に花神楽よさこいチームが参加。
平成25年2月前年に引き続き「台湾ランタンフェスティバル」へ花神楽よさこいチームが参加、芸妓が同行し、高知の観光PRの席にて土佐の民謡や踊りを披露。
平成25年3月鏡川と浦戸湾の境に位置する小島「丸山台」にて、「丸山台でおきゃく」を実現。
平成25年8月よさこい祭り4回目。本祭で「銀賞」、全国大会で2度目の「武政英策賞」を受賞。
平成25年9月3日台湾遠征をはじめ、高知の観光振興のために活動してきたことが評価を得、高知県観光特使の委嘱を高知県知事よりいただく。
平成28年2月江戸時代から200年以上の歴史を紡ぐ京都祇園の老舗茶屋「富美代」八代目女将・太田紀美氏と祇園芸妓・舞妓の皆様をお迎えし、伝統が今に息づく京都の花街文化の美しさや、それらを支える厳しさのお話と、京都祇園の洗練された芸能を披露していただく。
平成28年3月道場六三郎氏を再び迎えての食のイベントを開催。道場氏の真のおもてなしの心にふれる。

土佐の料亭文化と自由民権運動

土佐は「自由民権運動」が盛んなところとされています。
その中心人物・板垣退助の故郷であることも大きいのですが
自由民権運動の思想が民衆に広く行き渡ったことも、その大きな理由の1つです。

なぜ、民衆に自由民権の思想が広まったのでしょうか?

…料亭・芸妓・お座敷遊び が、
自由民権の思想を広める役割を担ったと言われています。

自由民権運動活動家のひとりに、植木枝盛という人物が居ます。
板垣退助と同じく、高知出身。
土佐藩の中等の藩士直枝(なおえ)が父。
板垣退助の演説に触発されて上京を決意します。
勉強熱心な方だったようで、あらゆることを吸収し、
主に執筆することで自らの思想を論じられたようです。
庶民に「自由民権運動」を訴える効果的な手段として
「民権数え唄」をつくりました。
銚子(千葉県)の民謡である「大漁節」のメロディーに乗せた20番まであるものです。

また、同じく高知出身の活動家である安岡道太郎も
「よしや武士」という都々逸をつくりました。
メロディーは、皆さんがよくご存知の「よさこい節」と同じものです。

民権の唄を広めた「はちきん芸妓」

これらの唄を、民衆に広めた役者が当時の芸妓達です。
そして、当然ながら場所は料亭となるわけです。
芸妓達は、お座敷で披露する「お座付き」の中で
「民権数え唄」や「よしや節」等を唄い・踊りました。
風刺も入った歌詞、馴染み深い曲の「替え唄」でもあったので
お座敷で人気を博し、
お客様も芸妓達と一緒に口ずさんだり踊ったりしたようです。
もともと「お酒好き」「議論好き」の土佐。
「自由民権運動」というお題は、格好の「酒の肴」であったことでしょうし、
その「自由民権運動」の思想が盛り込まれた唄が
広まらないわけがありません。

そして、土佐の女性は「はちきん」。
「男性の4人前」だと言われていますが
当時の芸妓も、例に漏れず「はちきん」だったようです。
その「はちきん芸妓」達が
意気揚々と「民権数え唄」や「よしや節」を
お客様と唱い踊り明かした様子…
さぞ、賑やかなことだったと思います。

はちきん芸妓の代表「愛吉」さん

日本では「特別地方消費税」という
税金制度が
2000年3月31日まで施行されていました。
この「特別地方消費税」の元々は、
明治時代の「地方税規則」にある
「雑種税」のようです。
「雑種税」は、
料理屋・旅籠屋・芸妓などに対して
課税することが認められていました。

高知市稲荷町に「松鶴楼」という料亭がありました。
その「松鶴楼」には、「愛吉」という大変利発な芸妓が居りました。
愛吉は芸妓仲間の君鶴・亀子・八重松・若常らを率いて
芸妓税値上げ議案の高知県議会を傍聴したそうです。
この傍聴は、高知県議会初の女性傍聴・第一号でした。

また愛吉は、「土陽新聞」に「芸妓諸君に告ぐ」と題した論文を投書。
その内容は「芸妓蔑視」に対する抗議だったそうです。

「愛吉」さんをはじめとした「はちきん芸妓」の意志を紡ぎたい

料亭濱長2Fの部屋名は、この五名の芸妓からいただきました。
ちなみに「市丸」は旧濱長の売れっ子芸妓が所縁です。

はちきん芸妓の、
まっすぐな気持ちと優しさを
今の濱長へ紡いでいきたいと存じます。


土佐の自由民権歌集 世しや武士

高知市立自由民権記念館友の会 (著),
松岡僖一 高知市自由民権記念館長 (編集)

自由民権運動を盛り上げ、民衆に広く知ってもらうために思いをこめて作った
唄の数々を、濱長の芸妓・地方衆が再現するお手伝いをさせていただきました。
ご指導は、もちろん 小唄・田村流師範の田村とよ由紀先生です。

料亭濱長でも店頭販売しております。
お土産や自由民権運動の研究にいかがでしょう。


民権かぞえ唄

自由民権運動…当時のお座敷を想像しながら、
濱長芸妓・舞妓・仲居が披露いたしました。
2013年・第3回「風薫る土佐をどり」にて。