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初代女将・千代子の日記

25.「長生苑」

思わぬ融資に感謝

私が高知市南はりまや町の「濱長」と背中合わせの電車通りで焼肉店「長生苑」を開いたのは昭和三十七年でした。当時、四人の子供は学校や嫁ぎ先の関係ですべて東京住まい。ある時、上京した私を二女の賀世が連れていってくれたのが、私には初めての焼肉屋さんでした。そして「高知でも、こんんな店を開いたらはやるぞね」という二女の言葉に「よっし」と思い立ったのです。
しかし、高知へ帰って話をすると、万事慎重な主人は「やちもないことをするな」と言います。やむなく一人で四国銀行に融資を申し込みました。「担保もないのに…」と主人は猛反対です。私も、やっぱり駄目だろうと諦めました。
そこへ偶然、それまで全く取引のなかった高松相互銀行(現兵庫銀行)高知支店の川竹光男さんという方が預金の勧誘に来ました。融資を断られかっかしていた私が「預けるどころか、お金がのうて困っちゅう。三百五十万円ばあ貸してくれんかね」と申しますと、川竹さんが「二、三日待ってくれませんか。相談してみます」と言うのです。
「担保もないのに貸してくれるはずがない」と思っていた私は、約束通り二、三日してやってきた川竹さんが「本店と相談した結果、融資することにしました」と言ってくれた時には、うれしいやらびっくりするやら。一瞬ぽかんとしました。
後で聞くと、当時の高松相銀の社長さんが、かつて大蔵省高知財務部長をしていたころ、うちの店を利用してくださっていたうえ、私たち夫婦と特別な関係にあった塩見俊二先生とお知り合いだったことが分かりました。その社長さんが「責任は僕が持つから貸してあげなさい」と言ってくださったそうです。川竹さんは現在、明星産商という会社の副社長になっていらしゃっいます。

大当たりの焼き肉店

こうして開業資金ができ、焼き肉店は料亭東側にあった子供用の別棟を壊して新築しました。最初反対していた主人も、いざとなると徳島からインテリアの人を呼んでくれるなど協力してくれ、斬新な、ぱりっとした店ができました。白い壁に黒の格子。このコントラストが実に鮮やかでした。
料理人は二人。大阪の有名な朝鮮料理店に一人一ヶ月ずつ勉強にやりました。秘伝のたれも特別に教えてもらい、味は上々。高知にまだ焼き肉が珍しかったこともあり、しばらくはお客さんの列ができるほど繁盛しました。
私は料亭のおかみの本業に励む一方、手があくと裏口から「長生苑」へ回り、エプロン掛けで手伝う忙しさ。おかげで、子供たちの学費と東京での生活費は十分稼がせていただきました。
この店は数年後、高知に帰ってきた二女に譲りました。そのころには高知にも随分できていた同業者に負けないよう娘も頑張りましたが、店の敷地を「濱長」本店の敷地と一緒に地主さんへお返しする必要が出てきたため、昭和六十一年に廃業しました、
しかし、子供たちの東京での学費や生活費をこの店でつくらせてもらっただけに思い出は格別。先日、懐かしい「長生苑」のマッチが一つだけ残っていたのを見つけました。そして、シュッとすって炎を見ているうち、思わず波だがこぼれそうになりました。