TOPICS

  • 晴れの日のおきゃく和婚
  • おすすめコース
  • 料金プラン
  • ご予約の手引
  • 濱長Facebook
  • 私たちはピンクリボン運動に取り組んでいます。

初代女将・千代子の日記

24.日本一の本部長

懐かしい「湯島の白梅」

首相秘書官になった金沢さん(前列右から3人目)の送別会で。金沢さんの左が筆者(旧「濱長」)

昭和四十八年八月から一年間、高知県警本部長をされた金沢昭雄さんは、のちに警察庁長官にまでなっただけあって、私どもの目から見ても、それは素晴らしい方でした。
まだ本部長に発令される前、既にその人事をご存知だった参議院議員の塩見俊二先生が私に「おかあ、今度来る本部長は日本一じゃき、大事にせないかんぜよ」と教えてくださいました。その先入観があったのかもしれませんが、歓迎会で私どもの店に初めてお見えになった時の金沢さんは、きりりと引き締まり、スマートに見えました。それでいて、周りの人に対する態度は優しく人を見る目はこえていたつもりの私も感心することばかりでした。
お酒は強く、歌もお得意。歓迎会でも、すっくと立って「湯島の白梅」をお歌いになりました。若いころ署長をしていた警視庁本富士署の管内に「お蔦・主税」の湯島天神があったので、この歌をずっと「十八番」になさっていたようでした、
高知での生活に慣れたある日のこと「おかみさん、今度の休みにドライブに行こう」と誘ってくださいました。うれしくなった私は朝からよそ行きの着物を着込んで待っていました。何と言っても本部長さんだから、運転手付きのばんとした黒塗りの乗用車でお見えになると思っていたのです。
ところが、やってきたのは案に相違して白い小さな中古車。ノーネクタイで軽装の金沢さんご自身が運転していました。私はいまさら着替えもできず、そのまま助手席に乗せてもらい、大豊町まで行きました。そこでコーヒーをごちそうになり帰ってきましたが、周りに人々の目にはどう映ったでしょうか。いま思い出してもおかしくなります。
県警の方に聞くと、公私の別は非常にきちんとされていて、在任中、よくご自分の車でお出かけになっていたようです。

杉原秘書官が推薦

その金沢さんが、本部長わずか一年で高知を去ったのは、当時の田中角栄首相に秘書官として迎えられたからでした。四十九年七月、参議院選挙の遊説で来高した田中首相は、宿舎の城西館で金沢本部長と一緒に夕食をされました。
その夜、県警総務室長だった野瀬伝一郎さん(現土佐電鉄専務)が、金沢さんの警察庁の一期先輩で首相秘書官をしていた杉原正さんという方をご案内して、うちの店にお見えになりました。お二人のお話から察すると、警察庁に帰る時期がきた杉原秘書官が後任に金沢さんを推薦、それで田中首相がお呼びになったようでした。
金沢さんが首相秘書官に決まり高知を離れる時、高知新聞社の今は亡き梅原薫明さんや社会部方たちがうちの店で送別会を開きました。その時、梅原さんが私にそっと「金沢さんは十年したら長官になる。覚えちょきよ」と耳打ちしてくれました。
十年というわけにはまいりませんでしたが、金沢さんは六十三年一月に警察庁長官になり、在任中に一度、鏡川べりの新しい店にきてくださいました。
本部長のころと変わらぬ若々しい金沢さんにお会いして、私は「湯島の白梅」をお歌いになった歓迎会のことを思い出しました。