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初代女将・千代子の日記

22.北の富士関

親しみやすく男前

横綱時代の北の富士関(中央)と当時の九重親方夫妻

大相撲の九重部屋はいま、元千代の富士関が継いでいますが、この部屋は私ども夫婦がたいそうひいきにしておりました元千代の山関が興した部屋でございます。その後を元北の富士関(現陣幕親方)が継ぎ、そして現在に至っております。三代の親方がそろって元横綱ですから、たいしたものです。
千代の山関は、昭和三十四年に引退、しばらくは出羽一門の親方としてとどまっていましたが、三十九年に独立し現在の九重部屋を興しました。その時、まだ入幕したばかりの北の富士関も一緒に出羽の海を出ました。ほかの部屋と違って、出羽一門は分家を認めていませんでしたし、なにしろ大相撲界屈指の名門ですので、九重部屋の独立はいろいろ論議を呼び、親方はもちろん現役だった北の富士関もなにかとご苦労が多かったようでした。
そんな男意気にもほれたのでしょう。九重部屋ができると、うちの主人はますます親方や北の富士関に肩入れするようになりました。なにしろ、店が南はりまや町にあったころには相撲好きのお客さんに喜んでもらえるよう「九重部屋」という部屋があり、床の間に千代の山関の書を掛け軸にて飾ってあったほどです。
北の富士関が、うちの店にくるようになったのは、引退した千代の山関が独立する前、出羽の海部屋付きの親方をしていたころからでした。高知巡業の際、親方に連れられてきたのが最初だったと思います。その時はまだ関取に出世する前でしたが、すぐ十両、幕内と上がっていきました。ほれぼれするような男前のうえ、性格は親方のよいところをそのまま受け継いだように親しみやすく、ユーモアもたっぷり。のちにレコードも出したほどですから歌もうまく、店でもたちまち人気者になりました。

賀世さんをお嫁に

明るい人柄にひかれて、私の子どもたちも北の富士関とすっかり仲良しになっていましたが、特に二女の賀世とは年齢が一緒だったこともあって、なにかと話があっていたようでした。
ある時、ふっと私に「出世したら賀世さんをお嫁にくれませんか」と行ったことがあります。そう、賀世が高校の終わりころだったでしょうか。まだそんなことを考える年でもありませんでしたので、私は娘には何も言わず、聞き流していました。ところが、それから何年かたち立派になって店にきた北の富士関に「お嬢さんはどうしてますか」と尋ねられたのです。その時、娘はもう婚約をしていましたので、正直にそう申しますと、急に口数が少なくなり黙って店を出て行ってしまいました。その後は、現在の高知大丸東館のところにあったキャバレー「リラ」に行き、ちょっと荒れたのでしょうか。困った「リラ」から電話がかかってきて、主人が慌てて迎えに行ったのを覚えています。

おかみの日記 出版祝賀会で


陣幕親方(左から2人目)と濱田四国銀行頭取(その右)

しかし、そんなことがあってからも、北の富士関と私たち夫婦とのお付き合いはまるで何もなかったかのように続きました。陣幕親方になったいまでも時々、店にくると、連れのお客さんに「いやあ、亡くなったここの親父さんには頭が上がらんかった」と話していますが、それはおそらくあの時のことを言っているのだと思います。大関、横綱と出世しても相変わらず天衣無縫。気っぷもよく、ひいきからご祝儀をいただくと、おひねりをいくつもつくって両方のたもとに入れ、お弟子さんたちが手を突っ込んで分けてもらっていました。店の仲居さんが一緒になって手を突っ込み、きゃあ、きゃあと大騒ぎしていたこともありました。
この「おかみの日記」を最初に出版した時の祝賀会にも、陣幕親方はわざわざ駆けつけて、スピーチもしてくだざいました。一晩泊まった翌日は、空港まで賀世が送ってまいりましたが、車の中で一体どんな話が弾んだのでしょうか。あの時の話が出るたびに娘は「お母ちゃんが北の富士さんのことをちゃんと言うちょってくれたら、私の人生が変わっちょったかもしれんねえ」と冗談を申しております。


陣幕親方(中央)と筆者(左端)。右は長男の友良