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初代女将・千代子の日記

18.二隻の屋形船

浦戸湾内を風流に

屋形船に乗って、浦戸湾で捕れる魚をご覧になる高松宮さま(中央の柱の右側)

現在、うちの店がある高知市唐人町の鏡川べりに、民家を改造して旅館「濱長別館」を始めたのは昭和二十四年です。その年か翌年だったかと思いますが、鏡川と浦戸湾内を風流に楽しめる屋形船を造りました。
「これからの高知は観光を盛んにすることが大切。それには何か名物がいる。座敷代わりの屋形船はしゃれちゅうじゃいか」と言う主人の発想でした。
長さ一一・九メートル、幅二・四メートル、四・六一トン。建造費は二十九万八百円。畳敷きで、お客さんは二十人くらい乗れました。両側に同じ人数ずつ座り、中に料理を置き、仲居さんがいてお世話をするのです。
エンジンが付いていて、運転はそのころ帳場にいた番頭さんがしましたが、時々は主人もやっていました。浦戸湾へ出ると巣山へつけて、船の中で飲んだり食べたり。いくら騒いでも海の上なので周囲に迷惑をかけることはありません。いい時代でした。
県外のお客さんの接待に利用してくださることが多く、高松宮さまがお乗りになったこともありました。正直申しまして、船に料理を持ち込むのが大変。高価な食器を割ることもちょいちょいあって、そうもうけにはなりませんでしたが、高知の宣伝にはかなり役立ったと思います。

台風で流され沈没

「濱長」が所有した屋形船の内部

正確な年月は忘れましたが、この屋形船は大きな台風で鏡川が増水した時に流され、下流の橋げたに当たって沈没しました。
船は別館の庭にあった高知一と言われた松の木につないでありましたが、ものすごい濁流で流されそうになったため、若い衆がロープを引っ張り、主人が船に乗ってエンジンをかけ、陸に乗り上げようとしたそうです。
ところが、そのロープが切れたからたまりません。主人を乗せたまま船は流され、下流の橋に当たって砕けました。主人は濁流の中へ放り出され一瞬意識を失ったそうですが、気がつくと板切れがあったので、それにつかまり流されているところを助けられました。お医者さまが来てからは、眠らせてはいかんと、みんなで体や腕をぴしゃぴしゃとたたきながら手当をしていただきました。たまたま皮のジャンパーを着ていたのが心臓の冷えるのを防いだらしく、九死に一生を得たのです。
この事故があって、私はもう金輪際、船はいやだと思いました。ところが、塩見俊二先生や高知新聞の社長だった福田義郎さんらが「やっぱり屋形船がないといかん。人間は一回死んだら二回死ぬことはないから大丈夫。もう一回造りや」とおっしゃるのです。そこで昭和三十年代になって、最初の船とそっくりの第二号を造りました。
ただし、主人に注文をつけ、風や雨があれば絶対に出さない、専門の船頭さんを雇う、この二つを守ってもらうことにしました。
そんな具合ですから、二隻目の船は動いているより陸に上がっていることが多く、やがて、ただ同然で人手に渡しました。
かつて屋形船を出していた鏡川べりに店が移ったいま、当時を懐かしがるお客さんは随分いらっしゃいます。それを知って、店を手伝っている孫が最近、新しい船を造る計画をたてています。さて、どうなるでしょうか。私は期待と不安を交錯させながら見守っております。