TOPICS

  • 晴れの日のおきゃく和婚
  • おすすめコース
  • 料金プラン
  • ご予約の手引
  • 濱長Facebook
  • 私たちはピンクリボン運動に取り組んでいます。

初代女将・千代子の日記

14.千代の山関

巡業のたび大騒ぎ

千代の山関の断髪式ではさみを入れる夫・濱口八郎(昭和34年)

大相撲の第四十一代横綱の千代の山関は、主人の濱口八郎がひいきにしていた関係で、私も親しくお付き合いしました。子供達も横綱におふろに入れてもらったり、一緒に寝たり、随分可愛がっていただきました。
最初に会ったのは、まだ高知市丸ノ内で店をやっていたころでした。高知市出身のお相撲さんが廃業のあいさつにきてくれたとき、若い力士を二人連れてきて主人に「よろしくお願いします」と頼んだのです。その一人が幕内へ上がったばかりの千代の山関でした。
主人は「これは見込みがある」と思ったのでしょう。以来、すっかり千代の山関のひいきになりました。高知へ巡業にきたときはいつも一門のお相撲さんを二、三十人も広間に上げ、飲ますやら食べさすやら大騒ぎ。場所でのちゃんこの材料も差し入れしました。
私は最初のうち、相撲にはとんと興味がなかったので、正直言って「まあ、もったいないことをする」くらいに思っていました。
しかし、何回か接するうち、千代の山関がすごく礼儀正しく、義理堅いのに驚き、感心するようになりました。相撲はめきめき強くなり、大関、横綱と、とんとん拍子に出世しましたが、上になればなるほど物腰は丁寧になり、私たち夫婦をたててくれました、
例えば、高知へ巡業にきて、よその料亭に招かれても、なかなか行こうとはしませんでした。私が「人気稼業だから、そんなことではだめじゃないの」と、行くように勧めると「お母さんが一緒なら」と言うのです。そして車にも私を先に乗せ、お座敷でも私を上座に、といった具合でした。

礼儀正しく義理堅く

先々代九重親方(中央=横綱千代の山)を囲んでだんらんのひととき。右手前が杉村光恵さん(九重親方夫人)、左手前から長富検事長、公平高知営林局長、筆者(昭和48年3月)

上の娘の江見が高校二年になり、関東方面へ修学旅行に行った時のことです。学校で事前に、東京の旅館へ面会にくる人がいるなら届け出るように、との調査がありました。そこで、娘が大好きだった「千代の山」と書いて出すと、先生が「千代の山がくるはずはないじゃないか」と言って、取り合ってくれなかったそうです。
一方、私は私で東京の千代の山関に電話して「娘が会いたがっているから」と伝えてありました。するとどうでしょう。旅館へ奥さんと一緒に会いにきてくれたのです。みんな大騒ぎになり、娘は仲よしの友達と一緒にご夫婦に都内を案内してもらい、ごちそうになったそうです。
それから、娘が東京を出発する日、東京駅のホームにお弟子さんが、もろぶたのようなものに江戸前のおすしの折をいっぱい入れ、かついで届けてくれたそうです。
うれしくなった娘は、列車の中で友達におすしを分け、千代の山関の話をしながら食べました。しかし、引率の先生にだけはあげなかった、と言います。事前調査でせっかく「千代の山」と書いたのに、信じてもらえなかったのが、よっぽど悔しかったのでしょう。
昭和三十四年一月引退した千代の山関の断髪式では主人もはさみを入れました。順番がきた時「高知県代表、濱口八郎殿」と呼ばれたそうです。「やったもんじゃ、おれも高知県代表じゃったきのう」と、主人は帰ってきて自慢していました。主人がはさみを入れている写真はずっと店に飾ってあります。