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初代女将・千代子の日記

12.横手さんの忠告

両方へ陣中見舞いに

五期二十年もの間、高知県政のトップだった溝渕増巳さんが、初めて知事の座に着いたのは昭和三十年十二月。現職の川村和嘉治知事に副知事の辞表を提出、お二人の争いになったこの選挙は、それはそれは激しい戦いでした。
四年前、桃井直美知事が川村さんに敗れ野党になっていた当時の自由党県議団は、いうまでもなく県政奪回に懸命。県議会の定例会が近づくと、私どもの店に仮谷忠男、田村良平先生ら気鋭の方がよく集まり、あれこれ作戦を練っていらっしゃいました。もちろん、私はそういうお話の内容を聞くことはできませんでしたが、お二人らにも言われ、自然と溝渕さんに肩入れするようになっていました。
と申しましても、私どもの商売はいろいろな方のごひいきになりますので、あまり表だったことはできません。先日書きましたように、塩見俊二先生の選挙にだけは夫婦ともども走り回りましたが、これは先生と私たちが身内同様の間柄だったためで、全くの例外。溝渕さんの場合も、親しい人や店の仲居さんたちに声をかける程度の事でございました。
ところが、それがどこでどう伝わったのか、溝渕さんが負ける場合のことも考え、あまり深入りしないように忠告してくださった方がございました。二十七年から約二年間、県の庶務課長、財務課長を務めた横手正さんです。
中央から派遣され、川村知事、溝渕副知事に仕えた横手さんが、どちらか一人というわけにはいかなかったのは当然。選挙期間中のある日、私どもの店にお見えになったときも、実は両方への陣中見舞いのため来高されていたようでした。

二人だけの秘密

初登庁して記者会見する溝渕増巳知事 (昭和30年12月=高知新聞社提供)

ところが、その横手さんがお酒を飲みながら私に「おかみさん、選挙はどうしても現職のほうが強い。お店のこともあるので、溝渕さんの応援はほどほどにしておいたら…」とおっしゃったのです。
このときの横手さんは、決してお酒の上の冗談ではありませんでした。翌朝早く高知駅でお見送りしたときも、列車の窓から念を押すように「絶対に現職が強いから」とおっしゃいました。
しかし、もう乗りかかった舟です。「もし負けたら東京へ出て行きますから、その時はよろしく」と冗談を言い、手を振ってお別れしましたが、店へ帰る途中「溝渕さんは大丈夫だろうか」という不安が、心の中にふとよぎりました。
その私の不安も取り越し苦労に終わり、溝渕さんは約五万票もの差をつけて川村さんに勝ち、知事の座につきました。当選が決まった時、東京の横手さんから電報が届きました。
「オメデトウ、カリ、タムニモヨロシク」
「カリ、タム」とは仮谷、田村両先生のことでした。横手さんは、私が溝渕さんの応援をしていたのはお二人に言われたからだということを、ちゃんとご存知だったのです。
それから十数年たち、すっかり白髪になった横手さんが来高され、店にきてくださった時のことです。あの選挙を思い出したのか「おかみさん、よかったですね」とおっしゃいました。
おそらく、何がよかったのか、ほかの方は皆目分からなかったでしょう。それは横手さんと私だけの秘密でした。