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初代女将・千代子の日記

10.秘書の森下さん

野中県議の選挙が縁

塩見さんの秘書・森下茂兎美さん(右)と筆者 (旧「濱長」玄関前)

塩見俊二先生との思い出を書くのに、最初の秘書だった高岡郡日高村出身の森下茂兎美さんのことに触れぬわけにはまいりません。それは、森下さんを先生に推薦したのが私たち夫婦だったと言うことだけでなく、先生の秘書として、誠心誠意尽くしていた姿に心打たれるものがあったからです。
私が森下さんを知ったのは昭和三十年四月の県議会議員選挙の時です。高岡郡選挙区で立候補していた野中慶太郎さんの会社が高知市南はりまや町の私の店の前にあり、そこに森下さんも出入りしていました。
当時の高岡郡選挙区は須崎市も含まれていて定数は九。これに二倍以上の十九人が立候補、なかなかの激戦でした。野中さんは三期目でしたが、投票日が迫り票読みしたところ、どうしても少し足りない。そこで「一票でも二票でも」と、私たち夫婦に頼みにきました。主人は中土佐町、私は窪川町の出身で、郷里に身寄りがいたからです。
「よっし、行ちゃれや」と主人に言われ、私は親類や友達のところを回り、野中さんへの投票をお願いしました。選挙の結果、野中さんは四千六百四十八票。当選した九人の最下位で、次点の人とはわずか七十二票差の滑り込みでした。
その時、森下さんがきて「濱長さん、野中が当選できたのはあなたがたのおかげです」と男泣きにないてお礼を言ってくれたのです。その誠意のある姿が強く印象に残りました。
その年、塩見先生は大阪国税局長を退職、翌年七月の選挙で参議院議員になりました。ところが、秘書にと考えていた大蔵省時代の部下の方が都合できなくなり、私たちに「だれか、ええ人はおらんろうか」と相談がありました。その時、主人も私も即座に森下さんを推薦したのです。

酒を断って誠心誠意

秘書になった森下さんはお酒をぴったりやめたそうです。前回書きました通り、先生が私を相手に夜遅くまでお飲みになっている時も、一滴も飲まず隣の部屋で待っていました。
だから、私は森下さんがもともとお酒を飲めないのだと思っていました。秘書をやめた後で私のお店へきた時、本当はお酒を飲むのだと知ってびっくりしたほどです。
先生は無類のお酒好き。お酒でぐっすり寝込み、列車の寝台から転げ落ちたこともあるそうです。もし何かあって名前にキズが付くようではいけない。それには秘書が一緒になって飲んではいけない。こう決心してお酒を断ったのだそうです。
森下さんは先生の選挙でも随分働きました。昭和三十七年、高知県地方区で坂本昭さんと激しい争いになった時は、私の主人と一緒に先生を案内して県内をくまなく回りました。めったに人を見かけない山奥まで連れていかれた先生が「高知では猿やタヌキにいつ選挙権ができたがぜよ」と冗談をおっしゃったそうです。車を降りて山道を歩くので、森下さんの足にはマメができていました。
約十年務めた森下さんは昭和四十一年、先生が佐藤内閣の自治大臣になった時には秘書をやめていました。下積みの苦労をした森下さんに、いつか晴れがましい日がくるのを願っていた私は、それがただひとつ残念でした。