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初代女将・千代子の日記

7.池田さんの電話

「塩見を男に…」

池田勇人さん(前列真ん中)、塩見俊二さん(同右端)を囲んで。後列右から3人目が筆者(昭和31年・濱長)

参議院議員で厚生大臣、自治大臣にもなった塩見俊二先生は、まだ大蔵省に在職のころからお店にお見えになり、仮谷先生以上の深いおつき合いをさせていただきました。単なるお客様としてではなく、お人柄にひかれた私ども夫婦を、先生も奥様もまた身内同様に扱ってくださいました。
塩見先生がはじめて選挙に立候補されたのは、昭和三十一年七月の参議院全国区です。なんと言っても出身地の高知県が最重点地区で、地盤固めにはだいぶ前から努力されていました。そんなある日、大蔵省の先輩である池田勇人先生が応援に来高され、一緒にお店へお越しになりました。
池田先生が総理になる四年前のことです。さすがに威厳がありましたねえ。お酒も強く、初めのうちは私ども夫婦を話し相手にお二人ともコップでお飲みになっていました。ところが、しばらくすると、池田先生が突然、コップを置かれて「ちょっとそこへ座ってくれませんか」とおっしゃるではありませんか。
何事かとかしこまると、座布団を外した池田先生が正座して両手をつき、こうおっしゃいました。
「塩見はいいやつです。お二人の力でどうぞ男にしてやってください」
なにしろ天下の池田さんです。あまりのことに、主人と私はただ顔を見合すだけ。緊張して一言もお返事することができませんでした。その夜は親しい方を招き、両先生を囲む小宴となりましたが、お二人の友情をつくづくうらやましく思ったことでした。

ダブルの背広を新調

空路帰京する池田勇人さん(中央)を囲んで。左端が筆者、右端は夫・八郎(高知空港)

さあ、それからは大変です。主人も私も塩見先生の応援に必死になりました。主人はダブルの背広を新調して秘書代わり。先生が県内を回るときは必ずついてまいりました。
それについて面白い話があります。先生は車では助手席がお好きでしたので、主人が後ろに座って出かけることがよくありました。それはいいのですが、向こうについて後部座席から降りるダブルの主人を見て、現地の方が先生とよく間違えたそうです。そんな日は、帰ってくるなり先生が「おかあちゃん、きょうはだんながえらいもてたぜよ」と冗談をおっしゃいました。
さて、投票は七月八日。全国区の開票は九日になってからでした。私たちは店の一室で、気心のしれた方たちと情報を交換しながら一喜一憂していました。
高知県内での塩見票は文句なくトップでしたが、目標にしていた十万票には届かず七万三千五百十票。このため悲観的な見方をする人もいて、私は気が気ではありませんでした。
そんな重苦しい空気が漂い始めた真夜中の十二時ごろ、東京から帳場に電話がありました。なんと池田先生からです。慌てて私が出ますと、あのしゃがれた声で「おかみさんかい。塩見当確」たったそれだけで電話は切れました。私は塩見先生の当選確実はもちろんですが、それを少しでも早くと、ご自分で電話してくださった池田先生のお気持ちがうれしくて、涙がほおを伝うのをどうすることもできませんでした。
塩見先生の最終得票は二十九万四百三票。当選した五十二人のうち三十位でした。