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初代女将・千代子の日記

1.長屋でスタート

窪川町松葉川の農家の娘だった私が、夫の濱口八郎と結婚したのは昭和十年一月。濱口が二十三、私は二十一歳でした。以来、苦労を分け合ってきた主人は平成元年に亡くなり、二人で始めた料亭「濱長」もいまは長男が社長になってくれています。
しかし、どう変わっても忘れることができないのは、店を始めてからの長い道のりと、私の財産とも言うべき多くのお客さまとの出会いです。それをつづってみたいと思います。

自転車で酒の小売り

結婚当時、主人は高知市田渕町(現桜井町)にあった安岡という大きな酒屋さんの店員でした。生活は苦しく、私もその店からお酒を卸してもらい、自転車で高知市内を売って回りました。女性が自転車に乗るのが珍しかった時代です。ハチキンの私も、初めは恥ずかしかった。でも、そんなことは言っておれません。とにかく食べて行くのに必死でした。しかし、一本の利益はしれたもの。それに、そうそう売れるものではありません。「いりません」と言うなり、ぴしゃっとドアを閉められた時の情けなさ。夜は夜でほそぼそと紙袋を張る内職でした。
そんな暮らしが一年以上は続いたでしょうか。どうせ酒を売るなら、沸かして売ればもうけになる、と教えられました。つまり一杯飲み屋です。安岡のご主人も「お前なら酒は回してやる」と言ってくれました。
が、主人は猛反対。さんざん言い争った揚げ句「どうしてもやりたいなら、勝手にやれ」ということになりました。当時、菜園場の九軒長屋の真ん中に住んでいましたが、その狭い家を二つに仕切り、半分を主人が使い、半分で私が飲み屋を始めました。これが「濱長」のまだ名もないスタートだったのです。

「酒の権利」のおかげ

軍隊に招集された夫・濱口八郎(中央)を囲む家族。高知市菜園場の店の前で。左端が筆者(昭和18年8月)

やがて戦争の足音が近づき、一般の家庭ではお酒がだんだん手に入りにくくなりました。そのせいもあったでしょう。店は割合に繁盛し、我を張っていた主人も少しずつ手伝ってくれるようになりました。そして、思わぬ幸運にも恵まれました。それは新京橋近くのレストラン「中央食堂」が持っていた「酒の配給を受ける権利」を、主人が買い取っていてくれたからです。主人は料理店の組合のお世話もしていましたので、中央食堂さんが店を閉める時に譲ってくださったのだと思います。
昭和十八年八月、軍隊に招集された主人は「もう飲み屋はやめろ。あの権利を売れば。一生食べていけるだろう」と言い残して出かけました。
しかし、私は反対でした。「お金は使ったら減るが、体は使っても減らない。働きます」。朝倉の連隊に行き、こう言い張る私に主人も根負けしたようでした。
この権利のおかげで配給制になってもお酒にそう困ることはなく、お客さんにも喜んでいただきました。二階で子供が泣けば、急いでおっぱいを飲ませに駆け上がる毎日でしたが、主人の妹が手伝ってくれたので、どうにか続けることができました。
主人はB型でしたが慎重、私はO型で行動派。その慎重な主人が借金をして買っていてくれた「お酒の権利」が今日の礎 を築いてくれました。