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【誕生と成長を祝う】お祝い歳時記・壱

七五三や成人式、還暦などの馴染みの深い通過儀礼から
こんなお祝い事もあるのね!という通過儀礼までをご紹介いたします。

帯祝い(着帯祝い…ちゃくたい)

妊娠5ヶ月目の頃の戌〔いぬ〕の日(犬は安産の象徴)に安産を祈って
岩田帯〔いわたおび〕を巻く儀礼です。

「古事記(712年)」に、
神功〔じんぐう〕皇后がご懐妊中に三韓征伐へ向かわれました。
途中で産気づくことのないように、
また無事帰国して出産ができますように、という願いをこめて
腹帯を巻いたと記されています。
これが「帯祝い」のはじまりと言われています。

儀式の内容としては
岩田帯と言われるさらし木綿か白の綿ネルを、七尺五寸三分(七五三にちなんだ長さ。約2.3メートル)に断ちます。端に赤い寿の字を書き、折り目を下にして妊娠の下腹に巻きます。
産土〔うぶすな〕神社に参拝する
※ご自身の産土神社の探し方はコチラのサイトをご参考に
※また、各地の神社庁へお問い合わせしてみてくださいませ。
 高知は「高知県神社庁」 高知市塩田町19-33 電話:088(823)4304
「帯祝い餅」、「帯掛け餅」、「はらいた餅」等と呼ばれる紅白餅を食べる習慣があります。紅白餅の真ん中に小豆が一粒仕込まれており、包丁で開く際、小豆が切れると「女の子」、切れないと「男の子」が生まれるという言い伝えがございます。

命名式(お七夜…おしちや)

生まれた子どもに名前をつける儀式です。
生まれたことをその地域に住む人や、
その土地の産神〔うぶかみ〕様に報告をする日です。

お宮参り(初宮参り・産土詣)

生まれた子どもの長寿と健康を祈念し、
男の子は生まれて31日目、女子は33日目に
土地の守り神である産土神に参詣し、幸先を祈る儀式を執り行います。
子どもに祝い着(男の子が黒地の紋付き、女の子は友禅の晴れ着)を着せ、
父親の母(祖母)に抱かせることがならわしとなっています。

お食い初め…おくいぞめ(「箸初め」「箸揃え」「真名〔まな〕初め」「百日〔ももか〕」)

生後100日目か200日目に初めてご飯を食べさせる行事です。
ちょうど歯が生えはじめる時期に合わせています。
歯が生えるまでに成長したことを喜び、
一生食べるものに不自由しないように祈り、
健やかな成長を願う儀式です。
高知では「100日祝い」とよく言われます。

「食い染め椀〔わん〕」という鶴亀や松竹梅などの
おめでたい蒔絵模様の描かれたお椀を用意し、
赤飯や御頭つきの魚をあしらいますが
もちろん、お子さまは実際には召し上がらないので、
食べる真似事をいたします。
濱長では、「お食い初め」用のお祝い膳をご用意できます。
男の子用、女の子用とございますので、ご予約時にお申し付けくださいませ。

初節句


誕生後初めてのお節句。
男の子は5月5日の端午の節句、
女の子は3月3日の桃の節句です。
生後21日以内にお節句が来るという場合、
翌年の節句を初節句とすることが
古くからのならわしのようです。

節句の日に兜飾りやおひな様は、
子どもに降りかかろうとする災厄を
代わりに引き受けてくれる
守り神だそうです。

「節句」という文字の通り、季節の節目にあたり日。
節句には神さまへお供え物を捧げ、
儀式の後は、そのお供え物を皆がともに食事をするという習慣があります。

七五三


*三歳の男の子・女の子
2〜3歳の間に、髪を伸ばし始める儀式「髪置き〔かみおき〕」の儀式を行っていたものの発展形です。
*五歳の男の子
3~7歳の間に行う、初めて袴をつける儀式「袴着(はかまぎ)」の発展形。
*七歳の女の子
5~9歳の間に行う、着物を留めるのに使っていた紐を帯に変える儀式
「紐落し」「帯解き」の発展形

年齢に合わせての儀式を、お子様の成長を祝い、祈念する行事にしたものが七五三です。
昔は、子どもが生まれても病気などで亡くなることが多かったため、
「七つ前は神のうち」と言い、7歳までに、神がその子の運命を決めると考えられていました。

天和元年11月15日、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(生類あわれみの令で有名な)の
長男・徳川徳松が3歳の頃、その成長を祝し、さらなる健康を願った事が
始まりではないかとされています。
徳川徳松は生まれた時から病弱で、5歳で亡くなったそうですが
七五三の風習は、時代によって形は少しずつ変りながらも
今もなお、執り行われております。


11月15日あたりの特に土日に、
千歳飴を持ち、ご両親や祖父母に手を引かれて
神社でお参りする微笑ましい姿を見かけます。
江戸時代から一般的になった風習ですので、
昔は数え年
(生まれた年の12月までを1歳とし、
年が明けると2歳となる年齢の数え方)
でお祝いをするご家庭が多かったのですが、
現在では満年齢で行う
ご家庭のほうが高いように思われます。
どちらにしても、お子さまが無事に育ち、
これからの健康を祝い・祈ることには
変わりありません。
ご家族で相談し、
また、お友達はどうしているかなどを
考慮すれば良いとされているようです。


土佐のお座敷唄CD

濱長の地方衆の演奏・唄にて「土佐のお座敷唄CD」を制作しております。
しばてん踊り/可盃(べくはい)/菊の花/高知町づくし の4曲入り。 
これがあれば、お家で土佐のお座敷遊びが楽しめます!
3,000円(税込)で濱長の店頭にて発売中!


再出発のごあいさつ

時代の流れに、ついと押され。 私ども料亭「濱長」が皆様に惜しまれつつ、半世紀以上にわたる歴史の門を閉じたは、平成十三年九月のことでございました。
あれから六年。閉じて月日を経てもなお、お客様が未だに惜しんで下さるお心に、「濱長」という名の重みを思い知らされることも度々ありました。

そしてこの度、私どもは意を決し、再び「濱長」として門を開けることと致しました。まことに僭越ながら、消えゆこうとしている土佐のお座敷文化、その伝統を守れるのは、かつて芸妓や舞妓を抱え、その芸を磨き続けて来た私どもの仕事ではないかと思ったからでございます。
新たな「濱長」でも、土佐の芸妓、舞妓のお座敷芸とともに、土佐のお座敷遊びをお楽しみいただけます。古き良きものを残しながら 、新しきことも取り入れて参る所存です。女性のお客様にもぜひ、お座敷にお運びいただければと存じます。

今、この「濱長」の復活を何よりも喜んでおりますのは、大女将濱口千代子でございます。平成十九年、齢九十三歳を数えますが、お座敷にご挨拶に伺いたいと申しております。
女将三代で、復活のこの佳き日を迎えられますことは、私どもにとりましてこの上ない喜び。濱長のおもてなしの心で、皆様のぜひのお運びをお待ちいたしております。

平成十九年十一月吉日   

大女将  濱口千代子
女将   濱口 賀世
若女将  八松美佐子

初代女将・千代子を見送り、さらに前へと進んでいます

2009年12月8日、濱口千代子は天寿をまっとうし、夫・濱口八郎のもとに旅立ちました。
「お客さまは 何物にも代えがたい財産。おもてなしは、物ではなく真心です」
初代女将のこの言葉を常に胸に抱き、
濱長の歴史を紡いでまいる所存です。

現在は

大女将 濱口 賀世
女将  濱口実佐子
若女将 濱口 咲良

として、濱長をきりもりいたしております。


料亭濱長ものがたり

昭和十二年、高知市菜園場の長屋で
おでん屋「濱口」として創業。
昭和二十一年、料亭「濱長」として土佐のお座敷にあがりました。
濱長の名には末永く贔屓にしていただけるようにとの願いが込められています。


「濱長」は、昭和十二年、小さなおでん屋から始まりました。先代の濱口八郎がまだ、酒屋の店員をしていた頃のことで、生活が苦しく、食べていくのに必死の時代でございました。どうせ酒を売るなら沸かして売れば儲けになると教えられ、高知市菜園場の九軒長屋の狭い家を半分に仕切り、大おかみ千代子が開いたもので、これが「濱長」のまだ名もなきスタートとなったのです。
やがて戦争の足音が近づき、八郎も召集。もし我が身になにかあればと、妻と三人の子供が困らぬように酒の配給権を買い取り、店をやめろという八郎に、千代子は「お金は使うたら減るが、体は使っても減らん。私は働きます」と言ったのだそうで、それはまさに土佐のはちきんの気丈さと申しましょうか。その千代子の決心が今日の礎となりました。


終戦後、八郎は無事戻り、昭和二十一年に永国寺の武藤家のお屋敷を借りて店を始めます。この時から私どもは「濱長」と名乗ることになりました。末永く贔屓にしていただけるようにとの願いが込められております。
その後、昭和二十三年に南はりまや町に移転。昭和六十一年に現在のこの場所に移って参りました。この間、濱長は政界財界の先生方をはじめ、さまざまなお客様のご贔屓に預かって参りました。厚生大臣や自治大臣を歴任された塩見俊二先生、池田勇人元総理、また、第四十一代横綱千代の山さん。それこそ、数え上げたらきりがないほど、すばらしい皆様との出会い、貴重なエピソードの数々を「濱長」は、この胸に大切にしまってございます。

しかし、時代のあまりに早い変わりようを止めることがはできず、官官接待の廃止などを受けて、平成十三年に、やむなく店を閉めたのでございます。その年は「魚竹本店」「祢保希」と次々にしにせ料亭が門を閉ざした年でもありました。
そして、この度の 「濱長」復活。私どもは再び「濱長」の歴史、その続きを綴って参りたいと存じます。


1.長屋でスタート

窪川町松葉川の農家の娘だった私が、夫の濱口八郎と結婚したのは昭和十年一月。濱口が二十三、私は二十一歳でした。以来、苦労を分け合ってきた主人は平成元年に亡くなり、二人で始めた料亭「濱長」もいまは長男が社長になってくれています。
しかし、どう変わっても忘れることができないのは、店を始めてからの長い道のりと、私の財産とも言うべき多くのお客さまとの出会いです。それをつづってみたいと思います。

自転車で酒の小売り

結婚当時、主人は高知市田渕町(現桜井町)にあった安岡という大きな酒屋さんの店員でした。生活は苦しく、私もその店からお酒を卸してもらい、自転車で高知市内を売って回りました。女性が自転車に乗るのが珍しかった時代です。ハチキンの私も、初めは恥ずかしかった。でも、そんなことは言っておれません。とにかく食べて行くのに必死でした。しかし、一本の利益はしれたもの。それに、そうそう売れるものではありません。「いりません」と言うなり、ぴしゃっとドアを閉められた時の情けなさ。夜は夜でほそぼそと紙袋を張る内職でした。
そんな暮らしが一年以上は続いたでしょうか。どうせ酒を売るなら、沸かして売ればもうけになる、と教えられました。つまり一杯飲み屋です。安岡のご主人も「お前なら酒は回してやる」と言ってくれました。
が、主人は猛反対。さんざん言い争った揚げ句「どうしてもやりたいなら、勝手にやれ」ということになりました。当時、菜園場の九軒長屋の真ん中に住んでいましたが、その狭い家を二つに仕切り、半分を主人が使い、半分で私が飲み屋を始めました。これが「濱長」のまだ名もないスタートだったのです。

「酒の権利」のおかげ

軍隊に招集された夫・濱口八郎(中央)を囲む家族。高知市菜園場の店の前で。左端が筆者(昭和18年8月)

やがて戦争の足音が近づき、一般の家庭ではお酒がだんだん手に入りにくくなりました。そのせいもあったでしょう。店は割合に繁盛し、我を張っていた主人も少しずつ手伝ってくれるようになりました。そして、思わぬ幸運にも恵まれました。それは新京橋近くのレストラン「中央食堂」が持っていた「酒の配給を受ける権利」を、主人が買い取っていてくれたからです。主人は料理店の組合のお世話もしていましたので、中央食堂さんが店を閉める時に譲ってくださったのだと思います。
昭和十八年八月、軍隊に招集された主人は「もう飲み屋はやめろ。あの権利を売れば。一生食べていけるだろう」と言い残して出かけました。
しかし、私は反対でした。「お金は使ったら減るが、体は使っても減らない。働きます」。朝倉の連隊に行き、こう言い張る私に主人も根負けしたようでした。
この権利のおかげで配給制になってもお酒にそう困ることはなく、お客さんにも喜んでいただきました。二階で子供が泣けば、急いでおっぱいを飲ませに駆け上がる毎日でしたが、主人の妹が手伝ってくれたので、どうにか続けることができました。
主人はB型でしたが慎重、私はO型で行動派。その慎重な主人が借金をして買っていてくれた「お酒の権利」が今日の礎 を築いてくれました。