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初代女将・千代子の日記

5.義父の教え

自分のやれる範囲で

家族、全従業員が集まって新年宴会。 正面真ん中が夫・濱口八郎(南はりまや町の旧「濱長」)

昭和二十三年、店は高知市丸ノ内から南はりまや町に移転しました。実はその時、最初は旧八軒町(現・本町二丁目)の、いま竹下病院のあるところに新しい店を構える予定で、二百六十坪の土地を買い、建前も済ませ、お餅までまいていました。ところが、お酒の仕入れの関係で親しくなっていた山崎猛さんが、南はりまや町の川崎源右衛門さんの土地を教えてくださったのです。
私が易占いの人にみてもらうと「南東の方角がよい」とのこと。丸ノ内の店からは、この土地がぴたり南東に当たりましたので、思い切りよく予定を変更、お借りすることに致しました。
店の建物は、私の故郷である窪川町の民家を三十五万で買い、それを運んで建て直しました。料理店ができるように少し建て増しも致しましたが、それでも全部合わせて百万円くらいでできたと思います。
こうして、私たちの店は少しずつ大きくなりましたが、決して無理な拡張は致しませんでした。それは、亡くなった主人の父の遺言でもあったからです。


高知に駐留していた米軍士官らを招いての懇親会(旧濱長)

主人の父の家は、もともと中土佐町久礼の網元だったらしいのですが、祖父が知人の借金の保証人になったのが原因で財産をなくし、私たちが結婚したとき、義父は伊野町で板場をしていました。
子供のころのいやなことを思い出したくなかったのでしょう、私には昔の話はしませんでしたが、ただ一つ「他人に判を押してもろうたらいかん。こっちが押してもいかん。自分の力でできる範囲でやれ」と口ぐせのように申しておりました。自分の父が他人の借用書に判を押して失敗したのがよほどこたえていたのだと思います。
そのころ、私どもの店は四国銀行さんとの取引だけで、現在頭取になっていらっしゃる浜田耕一さんや本店営業部の方には随分お世話になりました。融資を受けるときは主人の名前で申し込み、保証人はいつも妻の私。よそさまに保証人になっていただくことは決してありませんでした。
息子の代になった現在は、高知銀行さんにお世話になっておりますが、よそさまの印鑑をお借りしないという考え方は変わっていないはずです。